Creator's Story 山田参助

いま幅広い世界で活躍する新しい表現者たち。その創作の原点から、いかにして現在の個性を手に入れたかを探るインタビューシリーズ。第6回は力強い画力と男臭い作風で長くサブカル誌の世界で活動し、デビューから19年後、初の一般誌連載となった長編作品が高く評価された山田参助さん。好きなものを追求し、活躍の場を見つけた先で知った、漫画への想いを訊きました。

(取材:明田愛・中村公彦)

カルチャーを養分にした青春時代

昭和47年大阪生まれの山田さんですが、どんな10代を過ごしていましたか?

完全なインドア少年でした。本を読んだりテレビを見たり、漫画みたいなものを描くようになったのは小4くらい。一人でいることが全く苦痛じゃなかったですね。小6で「風の谷のナウシカ」に出会い掲載誌の『アニメージュ』(徳間書店)を毎月買ってました。中学で文芸部に入ってクソのようなイラストポエムみたいなのを描きなぐっていましたが、大友克洋さんの「AKIRA」、山賀博之監督のアニメ映画「オネアミスの翼」、浦沢直樹さんの「パイナップルARMY」に衝撃を受けて人物に小鼻を描くことを覚えました。でもアニメーターのいのまたむつみさんも好きだった。中3くらいに寺山修司さんの映画や花輪和一さんの漫画を知って「こういう表現があるのか!」とアニメ以外のサブカルの洗礼を受けました。高校では漫研に入って短い漫画を部誌に描く程度。お絵描きはしても、物語を次から次へと作り出す力はなくて、単なる消費するファン止まりでした。全然それでも楽しいんだけども。

 その後、大阪芸術大学の美術学科に進学されました。

ずっと絵を描いてるから絵描きになるんだろうな、ぐらいの考えで大学に入りました。芸大の図書館では知らなかった映画や音楽にいっぱい触れられて、今まで情報量の少ない狭い世界で生きてたんだなぁと実感しました。漠然と好んでいたものが系統だてられて、自分のカルチャーマップがぐんぐんと拡がりました。芸大には『ガロ』(青林堂・休刊)とか『アフタヌーン』(講談社)とかを読んでる学生が普通にいて、それまで自分の喋る日本語が他人にあまり通じてる感じがしなかったんですけど、ようやく「人と対話してる!」って体験が出来ましたね(笑)。大学ではひたすら図書館で映画を観ていたので、キャンパスライフを楽しむ感じじゃ無かった。所属はしなかったけど、落研サークルには漫画を描く、藤本和也君(※)やその先輩の炭子部山貝十さん(※)など面白い人がいっぱいいたので交流がありました。文学や少女漫画の知識を与えてくれる友人にも出会えて凄い刺激を受けました。

※藤本和也…漫画家・イラストレーター。ミニコミ誌『黒のマガジン』主宰。サークル「藤本和也」として東京・関西のコミティアにも参加している。

※炭子部山貝十(たんこぶやまかいじゅう)…漫画家・映像作家。ユニット「顔画工房」、「尻プロダクション」で漫画・映像・雑誌制作などを行う。『黒のマガジン』メンバーとしても活動中。

大学から本格的に同人活動を始めたそうですね。

大学1、2年の頃、関西で開催されていた同人誌即売会に参加するために、初めて創作同人誌を作りました。『昭和の繪本』というタイトルで、従軍慰安婦の話をダイジェスト漫画とエッセイにした、今でいう評論本みたいな感じです。COMITIA in大阪(後の関西コミティア)には93年の第1回から参加していて、カタログの表紙を描いたり、面白かった同人誌を紹介するエッセイを寄稿したり。同じ時期に、東京コミティアにも遠征するようになりました。大阪の頃はコピー本しか出してなくて、中村代表が「オフセット印刷にしたほうがいいよ」とお金を貸してくれたこともあります(笑)。東京のティアズマガジンでサークルインタビューを受けたこともありましたっけ? 20代の頃は好きとか嫌いとか言いたい事がいっぱいあって、当時のコメントは読み返すのが恐ろしい。この頃にツイッターが無くて本当に良かった。

漫画で表現するということ

大学在学中の94年にゲイ雑誌『さぶ』(サン出版・休刊)でプロデビューを果たしました。

色んな雑誌があるけれど、みんな自分の力が発揮できる、勝負できる場所で漫画を描きたいでしょう。それが僕にとっては『さぶ』だった。可愛い女の子を描くために画力を洗練させていく人は多くても、『さぶ』の世界にドンピシャな男くさい男を描くことに拘っている人はそんなにいない。僕は足が短いとか鼻が低いとか、アジア人的なニュアンスがありつつ、セクシャルな描写に耐えうる男を描くのが得意だったんですよ。例えばチンチンを放り出している男の絵を描くとき、大抵の漫画表現では顔を赤らめたり慌てた表情で表現しがちだと思うんですが、実際のエロシチュエーションでは真顔に近似値な微妙な顔をしているんじゃないかとか、あるいはディープキスをしているときの顎が開いた間延びした表情、それらを違和感なく表現するためのキャラクターデザインをするのがすごく楽しいわけです。男性の肉体や精神に宿るエロを表現することが、僕にとってはエンターテインメント。それは男同士に限らず、男性から女性に向かう性愛でも変わりません。

商業デビューされた初期から、現在の画力や作風を既に確立されていたように思えます。

いや、相当変わりましたよ。20代の頃の絵を見ると「こういう風になりたい!」と頑張っている描き方をしてますね。体温を感じるような人間の生々しさを表現したいのは、昔も今も変わらないです。60年代の日本映画で活躍していた加東大介とか殿山泰司とかの名脇役たちの、市井の人を上品にカリカチュア化した芝居に感化されたりしています。演じられたおじさんの可愛らしさを、漫画で描くならどうするか、すごく頭をひねるわけです。漫画って簡略化されたものを現実にシンクロさせるための表現だと思うんですよ。漫画と現実にとってちょうど良い距離とは何か、みたいなことをよく考えてます。従来の漫画フォーマットだけだともう足りないんじゃないかな。自分も過去の漫画家が作ったフォーマットを沢山引用させてもらってるんで、少しずつ改良して後の人に楽して欲しいな、と思ってるんです。

 16年発行の『山田参助の桃色メモリー』(KADOKAWA)収録の風俗誌・実録誌に掲載されたエロ漫画の数々は、既存のフォーマットに対する意識を強く感じます。

大阪時代から風俗体験ルポ漫画を連載してました。01年に上京して西原理恵子さん(※)の紹介でエロ系実話誌の仕事を貰いました。多くの男性を納得させる魅力的な女の子を描かなくてはいけないので、絵に対して理屈で考えがちな部分を解放して、今まで吸収してきた可愛い女性キャラのメソッドを全部ぶち込みました。僕はちょっと人が付いてこれないくらいに男を描くことに頑張り過ぎてしまったので(笑)、女性を一緒に描くとバランスが悪くなりがちなのが難しいところですね。

※西原理恵子…漫画家。『ぼくんち』『毎日かあさん』など著書多数。『さぶ』に執筆していた縁で、ルポマンガ『できるかなV3』(角川文庫)に山田さんのイラストが掲載された。

描ける場所を探して

30代では商業単行本を3冊出されています。

ゲイ雑誌やBL誌に掲載されたものですね。11年の東日本大震災の影響で描く媒体もどんどんなくなっていって、日雇いの工場バイトしたり。貧すれば鈍するというやつで、どうやったら自分の漫画がお金になるかとか冷静に考えられなくて、そこからなかなか抜け出せませんでした。単行本が絶版になってしまうのが嫌で「自分の本がどれか一冊でも書店に残っていて欲しい」とか何とか、ポロっとツイートしたら「そんなこと言ってる間に新作を描いたら? 出来ないなら漫画家をやめた方が良いんじゃないか」という反応が返ってきて、今思えばまあ仰る通りなんですけど当時は傷つきましたねえ。

ゲイ雑誌や風俗誌などでの執筆が続いていましたが、メジャーな漫画誌で描いてみたいと思うことは無かったのでしょうか。

一般誌での連載の話も何度かありました。しかしネームが通らず流れたり、ある年配の編集者が『若さでムンムン』(太田出版)をパラっと見て、「山田さん、ファミリーものとか描けないの?」と言われて、「うわ、話にならん!」と思ったりして。ようするに相手にされていないわけです。でも、どこかで「まあ何とかなるだろう」と思っていて、描こうと思えば何でも描けるつもりにはなってるヤバイ人だったんです(笑)。貧乏なのに。当時自分の周囲の人は引いてたんじゃないかなあ。

 それが一般誌に連載することになったきっかけは何だったのでしょう?

発表媒体をなくしてツイッターでクダを巻いていたところ、漫画家の松田洋子さんにサークル「赤い牙」(※)の同人誌に誘われたことから『月刊コミックビーム』(KADOKAWA)の編集者と知り合いました。「特攻隊ものと高度経済成長期の間は現代の作家がほとんど物語にしないエアポケットだから、これから戦後の焼け跡もの描いたらいけると思うんですよ!」と話してたら、トントン拍子に企画が通って、「あれよ星屑」を連載することになりました。焼け跡もののコンセプト自体は、それこそ従軍慰安婦の同人誌を出した20数年前から持ってはいたものの、構想はあれどそれを一人で同人誌にするには根性も技術も足りていなかった。創作同人の人ならたいてい抱えている苦しみだと思います。連載というベルトコンベアに乗せてもらえたから描かざるをえなくなったのは、めちゃくちゃ幸運でした。一人でできないことが、人を巻き込むとできちゃうんですね。

※赤い牙…02年に結成された漫画家集団。不定期で東京コミティアにも参加している。執筆者は流動的で清田聡・カサハラテツロー・さそうあきら・ヤマザキマリ・松田洋子・三宅乱丈など。

並行して「ニッポン夜枕ばなし」の連載も始まりました。

『月刊コミック乱』(リイド社)は時代劇雑誌というニッチなジャンルかと思いきや、ちゃんとコンビニ売りしてるメジャー誌であるところが面白いですよね。会社全体にも自由な雰囲気がある。メインの購買層のシニア世代が好みそうな、昔の雑誌には必ずあったシンプルな絵柄の短い艶笑オトナ漫画が無かったんで、若い編集者に「オトナ漫画のベテラン作家に描いてもらえばいいのに」って提案してたら、いつの間にか僕が描くことになってました。今これを漫画で描いたら新しいんじゃないか、みたいなアイデアを編集者と話すのがすごく楽しいですね。昔は話しても手ごたえが無いとすぐに諦めてしまってたけれど、自分のアイデアを新鮮なものとして面白がってくれる編集者もいるんだな、と。そういう場所を見つけられてラッキーだったと思います。

初めての長期連載

 13年に始まった「あれよ星屑」は4年半に渡る長期連載になりましたね。

実はこの連載で初めて20ページ以上の漫画を描いたんです。それまで短編エロ漫画しか描いてなかったから、実質「あれよ星屑」がデビュー作みたいなもんですね。40歳を過ぎてから、そんな経験した漫画家ほとんどいないんじゃないかな(笑)。10年前とか、もっと体力がある若い時に始められてたら良かったんだけど。

初めての連載で不安なことも多かったのではないでしょうか。

「あれよ星屑」の舞台になった年代に制作された映画や、同じような題材の映画は名画座(※)で今も上映されているしソフト化もされている。それら昔の映画を好んでる層は決して少なくないので、自分の作品が受け入れられる土壌はあるだろうと考えました。物語の方向性は何となく決めてたけど、何巻になるかも分からずに始まりました。いざ描くとなったら、やっぱり恥をかかない程度に資料を読み込まなくちゃいけないし、漫画を仕上げるために色々取捨選択し続けなくちゃいけなかったけれど、一話ごとに出来上がる面白さを新鮮に感じてました。映画を沢山観てたおかげか次の展開はすぐに思いつくので苦しいことはそこまで無かった。いくつかの選択肢を編集さんに示して「どれが好き?」って聞いたりして。連載だと「次回へ続く」が出来るので、ストーリーの進行を詰め込むのか、演出のニュアンスを一杯入れるのか、回を重ねながら濃度を調整することを覚えました。有難いことに何とか全7巻で完結出来ました。

※名画座…主に旧作映画をメインに上映する映画館のこと。テーマ別に特集を組んだりして2、3本立てで上映することが多い。

 漫画の作り方に変化はありましたか?

変えたというよりも何もかもが未経験のことばかりで、連載しながらやり方を覚えていった感じです。編集者としっかり打ち合わせしながらネームを作っていったのも初めて。僕は仕上げが遅いので、描いてる後ろで腕組みした編集さんに見張られて「そのコマのペン入れそこまで!」と昔の漫画家みたいなことも(笑)。じっくり粘って描けるのも有り難いけど、時間制限の中でここはここまで、と諦める気持ちよさもあって。強制的に物語や絵が走る、というのも連載の良さ…かどうかはわからないけど、独特の体験でした。作画作業や時代考証も色んな人に助けてもらってます。自分は一人で仕事をするのが嫌で、分業制がけっこう好きなんですよ。各分野のプロを引き入れた方が、作家自身も自分のことに集中出来て作品は絶対強くなる。映画では多くの人が関わりながらも監督の個性が出せているんだから、漫画でも同じようなことは出来るんじゃないかな。

逆に変わらなかった部分はどんなところでしょうか。

一般誌だからといって描くにあたって何かを止められた記憶はなかったですよ。ゲイ漫画の時とメンタル的にはほとんど変わってませんね。「男の性」についてはこれまでとは違う表現が沢山出来たと思います。主人公・川島をハンサムにしたことは今までとは違う所かも。脇役系の非ハンサムばかりを好んで描いてきたので、ハンサムに対する愛の足りなさを反省して頑張りました(笑)。それでもまだもう一人の主人公である門松みたいな、三枚目キャラが一緒にいてこそですけどね。ハンサムはハンサムという役割しかないので実は融通が利かないんです。シリアスもお笑いもエロも出来る三枚目の万能さにはなかなか敵いませんね。

連載を振り返って気付いたことはありますか?

絵でいうと川島が上手く描けると門松が上手く描けないというような、回ごとにバイオリズムがあるのが辛かった。人の漫画を読む時に、セリフと表情が合ってないのは嫌だなとよく思うんですが、実際に〆切に追われるとコントロールが効かなくなることもあるんだと経験的に理解できました。でもいやですね。連載が終わってから「あれよ星屑」を読み返してみたらかなり内容を忘れていて、人の作品みたいに読めました。この人、結構エグいな!とか(笑)。分かりやすい失敗はいっぱいしてるし、もっと考えれば良かったなという箇所も確かにあるけど、今となっては「よくこんなこと描くなぁ。変わってるなー」と思えます。

二つの漫画賞とこれから

今年19年には「あれよ星屑」が手塚治虫文化賞新生賞と日本漫画家協会賞コミック部門大賞を受賞されました。

二日連続でそれぞれの受賞の知らせを受けたんですが、他の仕事に追われてたのでその瞬間は「あ、そうですか」という感じ。まだまだ実感が湧かないです。こんなわかりにくい漫画を選んで評価してくれたことが嬉しいです。こういう賞状を貰うような賞は初めて。自称・カルト作家だし(笑)。「天声人語」(※)でもご紹介いただいて驚いています。

※天声人語…朝日新聞の朝刊1面に掲載されている名物コラム。6月1日付の回で「あれよ星屑」が取り上げられた。

今年で47歳になりますが、今後の展望を聞かせてもらえますか?

次回作はろくろく何も決まっていないけれど、やっぱり昭和ものになるのかな。自分が得意なことをやった方がいいぞと。老眼もきつくなってきたし、マイペースにやりたいですね。

最後に、山田参助さんにとって漫画を描くとはどういうことなのでしょうか。

物語を描くって自分の引き出しを開けていくようなことだと思うんです。何を読んで何を見て、蓄えてきたものをどう開けていくのか。「あれよ星屑」もそういう感じです。過去に吸収した沢山の映画や文学や音楽なんかを、ほとんど無意識に出してる。漫画を描いてると日常では考えたこともないようなセリフや考え方が、登場人物の口を借りて急に飛び出て来て、自分でもびっくりすることがある。さながらイタコのように(笑)。いや、本当はもっと理詰めでやりたいんですけど。

取材:2019年5月30日

『山田参助の桃色メモリー』作品紹介
 2003〜2009年にかけて、風俗誌や実録誌で発表されたエロ漫画を集めた作品集。80年代リバイバルシリーズなど、成年向け漫画らしからぬ愉快な異色作が目白押し。既存の漫画表現に対する洞察力と、巧みな再現力の面白さが味わえる。


『ニッポン夜枕ばなし』作品紹介
 『月刊コミック乱』(リイド社)で2014年から連載中。江戸時代に現代のエロ感覚を盛り込んだ1話4ページの艶笑小噺。昭和のオトナ漫画の雰囲気を踏襲し、明るい下ネタを力の抜けた軽妙なタッチで描いている。


『あれよ星屑』作品紹介
 『月刊コミックビーム』(KADOKAWA)で2013〜2018年連載。全7巻。敗戦の影がまだ色濃く残る東京の闇市で、復員兵の黒田門松は雑炊屋を営んでいるかつての上官・川島徳太郎と再会する。慰安婦、パンパン、浮浪児、引揚者…戦争によって翻弄された人々の生と性を、克明に描き出した意欲作。

山田参助プロフィール

漫画家。1972年、大阪府出身。大阪芸大在学中の1994年に『さぶ』(サン出版・休刊)でデビュー。以後、ゲイ雑誌をはじめ風俗誌、実話誌などで漫画やイラストレーションを発表。また、2010年には笹山鳩名義で参加している歌謡ユニット「泊」でCDデビューし音楽活動も積極的に行っている。2013年より『月刊コミックビーム』(KADOKAWA)にて、自身初の長編となる「あれよ星屑」の連載を開始。2019年に同作で第23回手塚治虫文化賞新生賞と第48回日本漫画家協会賞コミック部門大賞を受賞した。他に『十代の性典 山田参助青春傑作選』(太田出版)、『山田参助の桃色メモリー』(KADOKAWA)、『ニッポン夜枕ばなし』(リイド社)など。

●ツイッター:https://twitter.com/sansuke_yamada

●サークル名「山田参助」