しりあがり寿氏の「表現したい人のためのマンガ入門」(講談社現代新書)を読みました。
マンガ家入門ではなく、マンガ入門なのがミソでしょう。どちらかと言うと実技のノウハウよりも、描く上でのスタンスや発想法を自分の経験を元に書かれており、なかなか目から鱗が落ちる一冊でした。
氏はまず表現することの一番の喜びは「作品を通じて『自分』が世の中に受け入れられている実感を持てること」と言います。
もう一つは、マンガをはじめとするコマーシャルアート(商業芸術)には必ず「作品」と「商品」の両方の側面があること。つまり「自分が描きたいもの」と「読者が喜ぶこと」の両立の重要性を語ります。よくこの二つは相克するものと考えられがちですが、本来次元の違う要素であり、それらをいかに高い次元で融合できるかがその作品の評価となるのでしょう。
「自分が好きなもの」を描いても、売れなければ(読者が喜ばなければ)、「自分が受け入れられた」ことにならない。
同様に、売れても(読者が喜んでも)、それが「自分が好きなもの」でなければ、やはり「自分が受け入れられた」ことにならない。
確かに「自分が受け入れられる」という視点から表現することの本質が見えてきます。
「マンガを描く」という行為は「読者に見せる」という目的なしにはまず考えられません。複製芸術という意味合いからも、また誰にも見せず自分のためだけに描くとしたら労力が掛かり過ぎる表現だからです。「誰かに見せる」ために描いたマンガはやはり「誰かに受け入れられ」てはじめて幸せになるのでしょう。
また、氏は「商品」の評価はあくまで相対的で、需要と供給のバランスで決まるものとし、それは「自分そのもの」を評価する物差しではないとしています。そして「『時代の空気』ともいうべき『ナニカ』がないと、モノは売れません」とも言うのです。
この辺りは、長くサラリーマン(キリンビールの企画宣伝担当部署)とマンガ家の二足のワラジを履いた経験から得た深い実感ではないかと思います。
ご本人の謙虚な人柄のせいでしょうか、書かれていることは思った以上に平易な内容でしたが、氏の作品履歴をご自身が時代に何を感じながら描いたかを読めたのは収穫でした。
何より印象的なのは、氏ほどの才能のあるマンガ家でも、表現することへの不安を常に抱えながら描き続けていたことです。悩んだり苦しんで描くのが辛くなったり、誉められたり貶されたりして一喜一憂したり…。
それでも世の中のどこかに宝石が埋っていることを信じて描いている。それはなにかわからない。世界の理(ことわり)みたいなものかもしれないし、まだ見ぬスゲエマンガかもしれない。自分の生き方や信念みたいなものかもしれない。そんな宝物を手にできる可能性は限りなく少ないけれど、でもそれが埋っていることを信じるかどうかで気持ちは大きく違ってくる。「ボクは描くことでしか世界とつながっていられない」から。
いまコミティアに参加する多くの描き手たちともきっと共有する想いを抱いて、氏はもう25年もあの独自の作風とスタンスでマンガを描き続けています。
マンガを描くのは苦しく辛いことなのか? どうしても思うように描けない。アイデアが浮かばない。読者に上手く伝わらない。本が売れない。そんな悩みを抱えつつ、それでも描くのを止めないあなたに、最後に一つ嬉しい言葉を本書より引用しましょう。
<「夢は努力すればかなうか?」という問いにほとんどの人は「否」と答えるでしょう。けれどこのひとことを入れれば限りなく正確になります。それは「確率」、つまり「努力すれば夢がかなう確率は上がる」のです。>
苦しんで苦しみ抜いて、はじめて越えられる壁がある。その時はそれまでの苦労がバネになって大きく花開く。あなたが「咲く日」をまだ見ぬ読者はきっと待っています。
最後になりましたが今回は直接1736/委託110のサークル・個人の描き手が参加しています。この会場のどこかに宝石が埋っているか。それは誰にも判りません。けれど参加者一人一人が信じて探さなければそれはけして手に入らない。そのためにこそコミティアは、今もそしてこれからも此処に有り続けるのだと思います。
「砂漠が美しく見えるのは、そのどこかに井戸を隠しているからだよ」(サン・テグジュペリ『星の王子さま』より)
2006年8月27日 コミティア実行委員会代表 中村公彦