多くの人間が集まる催しは、みんなが集まりたいと感じているいまこそ行われるべきだと考えます。集まって、そこでしか会えない友の無事を祝い、安否を訊ね、それぞれのいまを話し、これからのことを考える。今回のコミティアはそういう気持ちで開催したいと思います。
3・11以降、半分壊れてしまった日常の中で、多くの創作者たちもまたもがいています。
「連載漫画家は、この大災害と無関係な世界とそこに住む人間達を、災害以前と同じ手触りで描かなくてはならない。この難題に今挑んでいる同業の方たちに敬意を。」(3月20日/マンガ家・井上雄彦氏のツイートより)
身近な題材をテーマに描くことが多い同人作家にも、この大きな喪失感の中で困惑している人がいるでしょう。また、フィクションの世界で大きな災害や事故を描こうとする作家にとっても、圧倒的なこの自然の猛威を前に、何をどう描けばよいのか途方に暮れる人もいるでしょう。
現代のマンガ・アニメ表現への鋭い分析で知られる明治大学准教授の森川嘉一郎氏は3月21日のツィッターでこう書いています。
「おたく文化は、永続する強固な日常(とその閉塞感)を基盤にして成り立ってきた。80年代のアニメはハルマゲドン願望が大きな柱だったし、オウム事件でそれに傷が付くと、重心を近未来から『近過去』のリセットに移して構築されてきた。ところが今や、永続する日常という基盤自体に亀裂が走っている。」
「24時間、日常品と蛍光灯の光に満ちたコンビニの空間は、いわば『永続する日常』の象徴だった。そのコンビニがいまや、むしろ『日常の脆さ』を露わにする空間へと変貌している。数ヶ月にわたって東電域で計画停電が続けば、それが今の小中学生の世代的な原風景にだってなるだろう。」
確かにこの3・11を境に、描かれる日常は緩やかにしかし確実に変わるでしょう。描き手はその現実を受け止めるしかないのです。
それでも「いま何が出来る」かを自問する人がいます。その問いに多くのマンガ描きは無力でしょう(マンガ描きには限りませんが)。せめて前線で救援活動をする人たちへ、個人で出来る後方支援をするくらいしかありません(義援金の募金はティアズマガジン96のP3を/サークルチャリティ活動の案内は同P310を/献血の協力は同P363を)。
ただ、数ヵ月後、あるいはもっと長い時間がかかったとしても、いつか彼の地が日常を取り戻し、復興を考えはじめた時、そこにいる彼らに寄り添う作品を描くことは出来るのかもしれません。
被災地の書店に届いた、ただ一冊きりの少年ジャンプを、100人以上の子どもたちが(お店公認で)立ち読みをしたというニュースはそんな希望を感じさせます(中には10kmの距離を自転車でやってきた子もいたそうです)。
先に引用した井上雄彦氏のツィートは、以下のように続きます。
「数々の困難を越えて近いうちに漫画雑誌が世の中に届けられたら、つかの間の娯楽で次への活力を補給してください。僕もリアルネーム開始。」
マンガの力を信じたくなる言葉です。
ここであえて伝えるならば、いま描けないでいる人は無理に描かないでよいのです。物理的に被災していてもいなくても、この無慈悲な運命の暴力に心が傷ついていない人はいません。いまはそれぞれが傷を癒す時です。今日はたくさんの人と会って、そのつながりを確認しあえる日だと感じてください。イベントとはそういうものでもあります。
勿論、描ける人・描きたい人はどしどし描くべきです。打ちひしがれるのではなく、怒りを原稿にぶつけたい人も、作品を通して何かを訴えたい人もいるでしょう。また一方で描くことに没頭して、束の間は現実を忘れたり、心の平静を保ちたい人もいるでしょう。描くことは自分の中の何かを昇華する行為でもあるのです。
だからこそ今回のコミティアで発表される作品を読むのは大変だろうなと思います。多くの描き手たちの様々な、そして激しい感情がいつにも増して込められているだろうから。私はそれを厳しい覚悟と大きな期待をもって読むつもりです。
最後になりましたが、本日は直接3597/委託69のサークル・個人の描き手が参加しています。また会場内企画として「IKKI(小学館)通巻100号前夜祭」も開催されます(ティアズマガジンP333参照)。
今日は節電のため照明を少し落とし、場内がいつもより少し暗いかもしれませんが、どうかご容赦下さい。また、スタッフは安全にイベントを開催できるよう、避難誘導などの計画を立て、不測の事態に備えて当日に望みます。参加者の皆さんも緊急時にはスタッフの誘導・指示にご協力をお願いします。
思えば今回ほど、多くの人と会えることに感謝したい日はなかったかもしれません。そして、そういう場所をいつまでも守り通したいと思っています。
それでは、会場でお会いしましょう。
2011年5月5日 コミティア実行委員会代表 中村公彦