INTERVIEW ちばてつや
50年代に貸本雑誌でデビューし、60年代には少年週刊誌で社会現象となる大ヒットを飛ばす。70年代からは青年漫画でも活躍。そして2016年よりは自身の漫画人生を振り返る作品を連載中。60年間に渡って漫画家として活躍するちばてつや氏は、まさに戦後の漫画の生き証人とも言えるだろう。氏の漫画家としての足跡を振り返りながら、日本の漫画メディアがどのような変遷を辿ったのかを検証する。そこには現在の漫画の激動期を乗り越えるヒントがあるはずだ。ティアズマガジンvol.115(2016.1.30.発行)より再録
ちばてつや教授が文星芸術大学マンガ専攻で教鞭をとって10年。ここ3年は同大学の卒業制作展をコミティア会場で行うのが恒例となった。今回はそれに合わせて、コミティア代表・中村公彦がちば教授にお話を伺った。場所は宇都宮にある同大学のちば教授の研究室。卒業制作展に参加する学生たちを交えて、インタビューは始まった。
60年前にもあった漫画の転換期
ちば昔の漫画は子供の駄菓子みたいな感じでね。親たちは自分も読んでたくせに、子供には漫画じゃなくて文学全集とかを読ませたいっていう人が多かったですね。私が漫画を描き出した頃はね、その…漫画を描くっていうのはちょっと恥ずかしかった(照笑)。
中村えっ…そうなんですか?
ちば絵描きになり損ねた人が漫画を描いてるイメージがあってねえ。たとえば水木しげるさん※注1ね。(学生の方を向いて)水木さんって知ってるでしょ?(一同笑) あの人は私より20歳くらい上だけど、戦争で兵隊に行って、南の島で爆撃にあって、片腕を無くしちゃって、大変な目に遭ったんです。水木さんは絵描きになりたくて、一所懸命油絵を描いたり勉強してたんだけど、帰ってきても片腕なので仕事がないから、紙芝居屋を始めたんです。それが今度は漫画っていうのが出てきて、水木さんもそちらに移った。漫画は紙が安い、印刷代も安い、描く人も早くて、原稿料も安くて(笑)。安くて早くて面白いっていうのが…。
中村吉野家の牛丼的な(笑)。でも、当時の漫画の評価はそうだったんですね。ちば先生が描き始めた頃は、貸本漫画※注2から月刊誌へ、そして週刊誌が生まれて、まさに昭和の漫画文化の高度成長期ですね。
ちばちょうど団塊の世代※注3が出てきた頃でしたね。人口が爆発的に増えて、つまり子供たちも増えた。それで漫画が飛ぶように売れ始めた。最初は漫画は雑誌の記事の添え物だったのが、子供たちは漫画を読みたくて雑誌を買っていることに出版社が気付いたんですね。それで漫画を描ける人を一所懸命探して、絵は好きなんだけど絵描きになれなかった人たちをどんどん起用したんです。
中村その頃、若い世代から登場したのが、トキワ荘の方々※注4や、ちば先生でしたね。私がちば先生に当時の話を聞きたいのは、今は紙の雑誌がどんどん売れなくなる一方で、WEBで作品を発表する人が増えている。漫画メディアの大きな転換期が来ていると思うんです。でも、それって発表する媒体が換わっただけで、漫画を描いたり読んだりするのは変わらない。漫画にはそういう変化が昔から何度も起こっています。たとえばちば先生は貸本雑誌でデビューされましたが、貸本がだんだん廃れていくのを経験されていますね。
ちばそうですね。私は17歳でデビューしましたが、それまでの作家がどんどん月刊誌の方に逃げていくので、安くて描ける人間を探していたのでしょう。
中村売れている作家がいなくなって、逆に若い人にもチャンスが増えたわけですね。
ちば当時は日本中が貧しかったですが、私もアルバイトで家計を助けたいと思っても、何をやっても上手く行かず。ただ貸本出版社に漫画を持っていったら、少し褒められたんですね。それで有頂天になって夢中で描いたらデビューさせてもらいました。でもその頃は貸本屋さんがどんどん無くなっていった時代ですから。それからまた路頭に迷いましたよ。
中村ちば先生はその頃、少女漫画も描かれていますね。
ちば貸本の小さい出版社から、当時の人気小説家の江戸川乱歩さんの小説の漫画化を依頼されて、「魔法人形」っていう恐怖物を描いたんだけど、お人形の話だからやたら女の子が出てくるんですよ。私は女の子を描くのがすごく苦手で、いろんなカタログや少女雑誌を買ってきて、女の子を描く練習を一所懸命しました。
中村苦手を克服するように研究されたんですね。
ちばそれで女の子ばっかり練習してるうちに、たまたま縁があって講談社の『少女クラブ』※注5から仕事をもらえたんです。なんか、運命に流されているようですね(笑)。貸本屋さんがなくなって、どうやって食っていこうという時に、新しい舞台が出てきたのは。ちょうど今の時代と似ていますね。
中村描き手が意識を切り替えられるかどうかなんですね。ちば先生は当時、抵抗はなかったのでしょうか。
ちばそれはなかったですね。今でもそうだと思いますが、もし私がWEBから頼まれたら、これまでと同じように描くと思うし。ただ、WEBは縦スクロール漫画とか色々ありますから、もう一回勉強し直さなくちゃいけない。まあ、横に読むか、縦に読むかだけの違いですから。
中村「横か縦だけの違い」。その通りですね(笑)。
ちば全く抵抗ないと思います。だから今度ね、縦スクロールも描いてみようかなと。(一同驚きの声)学生たちはこれから勉強するでしょ。私もみんなと一緒に授業受けて…。(学生に向かって)そうなったらライバルだぜ。(一同笑)
注1 | 水木しげる…漫画家。貸本時代から、妖怪物、戦記物と多岐に渡り活躍。代表作「ゲゲゲの鬼太郎」。水木しげる氏は2015年11月30日に逝去されましたが、このインタビュー時にはご存命でした。謹んでご冥福をお祈り致します。 |
注2 | 貸本漫画…1940~60年代、全国に広がった貸本屋で流通した漫画雑誌の掲載作品を指す。水木しげる、横山光輝、さいとう・たかを、楳図かずお、池上遼一などの多数の才能を輩出し、現在の漫画文化の源流とも言える。 |
注3 | 団塊の世代…第二次世界大戦直後の1947~1949年に生まれた世代。この時期に産まれた新生児人口は突出している。 |
注4 | トキワ荘…東京都豊島区にあった木造アパート。当初は手塚治虫が住み、その後、若き日の石森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄などが住人となった。当時の逸話は藤子不二雄Ⓐの「まんが道」に詳しい。1982年に解体。 |
注5 | 少女クラブ…講談社の発行した少女向け雑誌。1923~1962年に刊行。その後、漫画雑誌『週刊少女フレンド』へと移行。 |
週刊誌時代の到来、漫画が社会現象に
中村その後、『少年サンデー』『少年マガジン』の週刊漫画誌※注6が創刊されて、漫画の作り方が変わったと思うんです。それまでは漫画家一人か数人の手伝いで描いていたものが、大人数のスタッフを抱えるプロダクション制が生まれました。当時のちば先生の仕事はどんな様子でしたか?
ちば週刊誌を始めたら…なにしろ原稿渡したら、もう次の〆切が来てるんですよ(笑)。寝ようと思ったら、はい!もう次の〆切ですよ!って言われる…それは辛かったですね。私は描くのが遅いから、週刊誌は絶対引き受けないって逃げ回ってたの。だから創刊号には参加してないんですよ。一年間逃げてた。(一同笑)それが親しい編集長に「ちばさんは仕事が遅いのは知ってる。じゃあこうしたらどう? ちばさんはただ絵描いていればいい。お話はこっちで作りましょう」って言われたんで、それだったらいいかなぁ…って、うっかり引き受けたんです。いわゆる原作付き漫画の一番最初ですよ。ところが原作が来て、それ読むと…面白ければいいですよ(笑)。「ええ!? これ漫画にしたって面白くないだろ」っていうのも来るんです。原作が悪いのではなくて、小説としては面白いけど漫画にしたら面白くない場合もある。たとえばキャラクターがずっと二人で喋ってる会話を続けても、漫画としてはつまらないんですね。そうすると私なりに変えたくなっちゃう。まず子供にも楽しめるように、雑誌を読んでくれる子供の読者が納得してくれるように。学生のみんなにもよく言うんだけど、私は漫画っていうのはいかに迷わないで、わかりやすくて、すうって読めるかなあっていうことが大事だと思っていて、それにものすごくこだわるんです。それで結局、最初から作るのと一緒になって。むしろ最初っから自分で考えるのより難しいですよね。原作者が怒らない、気分悪くしないように「ここ使ってるよ!」ってところは残して。(一同笑)
中村当時、漫画が広まったきっかけに、家庭に普及したTVでのアニメ化がありました。今で言うメディアミックスですね。それにより作品の知名度も全国区になった。そうした影響はいかがでしたか?
ちばええ本当に、私の漫画は読んだことないけどアニメは知ってるって人がたくさんいましたね。それで「アニメが面白かったから、原作を読んでみたくなった」と読んでくれた人もいました。
中村ちば先生の代表作「あしたのジョー」は社会現象にもなりました※注7。「大学生がマンガを読む」と糾弾されたり、「右手に朝日ジャーナル、左手に少年マガジン」※注8という流行語もありました。漫画の読者が大人にも広がった時代でしたね。ちば先生にとっては何か思い出はありますか?
ちばあの頃は週刊誌の連載が一番忙しい時代だったんで、仕事場に閉じこもってほとんど世の中を見れなかったですね。たまにニュースを聞くくらいで。ただ、主人公のライバルの力石徹が死んだ時は、どこで調べたのか、いきなり京都の大学生が酔っぱらって仕事場に電話を掛けてきて、「自分の友達をなぜ殺したんだ!」と怒られました(笑)。酔ってるんだけど、声が真剣なので電話を切れないんです。どうもゼミ仲間で飲んでいたらしく、他の学生にも次々替わってあれこれ言われて、最後に教授が出てきて謝られたけど、その教授も酔ってて「本当のことを教えてください」って(笑)。ついにお店の女将さんが「切らせていただきま~す。おおきに~」って切れました。長距離の電話代が高かった時代に1時間以上も話していたら、お店も怒りますよね(笑)。
中村熱い時代でしたね。まさに日本中が漫画ブームで盛り上がっていました。ちば先生が最初におっしゃったような「子供の駄菓子」と思われていたものから、だんだん大人が読める作品が生まれてきたんですね。
ちば私はね、やっぱり読者が育てたんだと思いますよ。「こういう漫画が読みたい」とか、「こういう主人公がいい」って、アンケートを寄せたり、声を出したりするでしょう? そうすると出版社がまたそれを一所懸命に研究する。やっぱり読者と一緒に、作家も編集者もみんなが育っていったんだろうなぁと思う。
注6 | 週刊少年漫画雑誌…1959年3月17日に、講談社から『週刊少年マガジン』、小学館から『週刊少年サンデー』の二誌が同時に創刊され、新時代の幕開けとなる。 |
注7 | 『あしたのジョー』が社会現象…団塊の世代が成人を迎え、「全共闘」などの学生運動が盛んになった時代に人気となり、当時の著名人にファンも多かった。主人公・ジョーのライバルの力石徹が作中で死んだ際には、劇作家・寺山修司の呼びかけで実際に葬儀が行われた。 |
注8 | 「右手にジャーナル、左手にマガジン」…『朝日ジャーナル』は当時、朝日新聞社から刊行されていた思想言論誌。当時の学生達の硬軟の人気雑誌を並列した言葉。 |
少年漫画から、大人漫画へ
中村その時代は一方で関西を中心に劇画ブーム※注9があって、さいとう・たかをさんなどの代表的な劇画作家たちを少年漫画雑誌がどんどん載せました。
ちばあの世代の漫画家たちが、大人が読みたがるような、工員とか、農家だとかで働いてる…力仕事してるような、当時の若者たちのドラマを作りだしたからね。そのせいか『少年マガジン』が一時、「なんでぇ、これ『青年マガジン』じゃねぇか」って言われるくらい、「大人の話」ばっかりになっちゃった時期もありますねぇ。
中村『少年マガジン』はそれを見直して、作家を入れ替えて読者の年齢層を下げましたね。 その一方で、小学館の『ビッグコミック』などの大人の読者層を対象にしたジャンルも生まれてきました。ちば先生はそこで「のたり松太郎」を描いたりして、大人の漫画に挑戦されたました。 その辺りの意識の切り替えって、どうされてたんですか?
ちば…あまり切り替えてないね(笑)。少女漫画から少年漫画を描くようになった時は「切り替えなくちゃいけない」とすごく意識したんです。ずーっと少女漫画を描いていたもんだから、クセで男の主人公の目に睫毛を描いちゃうんですよ(笑)。でも、嬉しかった。「ああ、これでいちいち睫毛とか、目の中に星を入れなくてもいいんだ」とか、「もっとざっくばらんに描けばいいんだ」って、解放感がありました。その後は、自分の描きたいものを描いてると、自然に大人のキャラクターになっていきましたね。
ただ、私の家には検閲官がいてね(笑)。私の母親がとても厳しくて、家に届く雑誌も全部勝手に開けて見ちゃうんですよ。それでちょっとした男女のエピソードを描いても、「てつや!来なさい!早く!」って、もう忙しいのにねぇ、正座させられてねぇ、それでこんこんと説教されて…もう子供もいたんですけど、「あんた子供に恥ずかしくないの? こんなもの描いてね、私は世間様に顔向けができないよ」とか言われて、「これは大人向けの雑誌なんだよ」って言っても全然聞き分けてくれなくて、それで「わかったよ、もう」って、それから描けなくなっちゃったんですよ…そういう場面が(笑)。
だから今はほら、表現の自由の問題でね、青少年向けの本でも、警察やお役所がいろいろ動いたりするじゃないですか。でも、やっぱり基本なんでも自由にのびのびと描けたから、日本の漫画は独自の発展をしたんだから、検閲なんかしちゃダメだよって。怒られるのは私の母親だけで十分(笑)。
注9 | 劇画…貸本漫画の後期に、それまでの子供向けの漫画を脱し、画風やテーマなども大人向けに描いた作品を指す。辰巳ヨシヒロが命名。 |
漫画家はみな仲間でありライバル
中村ちば先生はメジャー誌の看板作家として活躍されていましたが、一方で『COM』や『ガロ』※注10などの当時マニアックと言われた雑誌がありました。そういった雑誌のことはどう思われていましたか?
ちばそこで漫画はほとんど描いたことないけど、私にとってはそういう雑誌を読むのがとても解放される時間でした。何を描いてもいいような実験的な作品が載っていて、絵はめっちゃめちゃヘタクソだったり、原稿料もすごく安かったみたいだけど、ホントに自由に楽しんで描いてるなぁという感じがありましたね。 真っ暗の中に蝶がただ一羽飛んでるだけとか、叙情的でじ~んとくるものがあったりしてね。「こういう表現、いいなぁ」「こういうコマの使い方もあるんだ」とかね。読んでいるとただの読者に戻れるんですよ。まあ、私が週刊誌でしょっちゅう〆切に追われて、「あれ描いちゃダメ」「これ描いちゃダメ」という中で描いてたから、余計それを感じたのかもしれないけど。
そうそう、『ガロ』で描いていたつげ義春さん※注11、大好きだったんですよ。ああいう中からすごい作家がたくさん育っていますね。
中村あらためて同人誌の話をしたいのですが、元々の同人誌というと、トキワ荘世代の仲間内で肉筆回覧するような同人誌※注12がありました。一方で、40年前に生まれたコミックマーケットのような、自費出版物を販売する即売会をベースにした現在の同人誌があります。ちば先生から見て、現在のコミティアも含めた同人誌の状況をどうご覧になっていますか?
ちば漫画を描いたらね、誰かに見てもらいたいものなんですよ。 私の場合は、小学生から同じ趣味の親友がいました。私の家では禁止だったんで、その友達の家で二人でこっそり描いて、見せっこして、褒め合うわけじゃないけど、互いに読んで「ふふ」って笑ったり、それだけで楽しかったですね。それこそ同人誌ですね。規模は二人きりですけども。
そういう意味ではね、いま大学でみんな隣で描いているじゃない。それで描き方や画材やパソコン作業を教え合ったりできるのが羨ましいなぁと思う。仲間がいるっていうのはとってもいいねえ。漫画を描くのは本当に孤独な作業だから。だから私も若い頃にね、コミティアみたいなところがあったらものすごく喜んで行ったでしょうね。
中村本当ですか、ありがとうございます。
ちばだって同じ「漫画が好き」「漫画を描くのが好き」という人たちが集まっているんだから。こんな楽しいことはないですよね。いいお祭りっていうのかな。
中村仲間であり、ライバルでもありますね。
ちばうん、そう。私も『少年マガジン』で描き始めた頃はみんなライバルでしたね。みんな仲間だけどライバル。たとえば松本零士とか、石森章太郎だとか、彼らが面白いものを描いたりするとね。もう悔しいというか、情けないというか、眠れなくなっちゃったりね。あいつが面白いのを描いた、こいつが上手くなった、とか考えだすと、自分が置いてかれちゃったようで辛くてね。
中村私の友人で、山川直人※注13という漫画家がいて、31年前のコミティアの発足当時のスタッフでもあったのですが、彼がその頃言っていたんです。「漫画描きはね、評論家にああだこうだ言われても、そんなことは気にならないんだ。漫画描きが一番本気になるのは、ライバルが自分より面白い漫画を描いた時で、絶対負けられない!と思うんだよ」それを聞いて私は、そうかコミティアはそういう場所になればいいんだ、と思ったんです。そういうつもりでずっとやってきています。
ちばこのくらいの歳になってくると、みんな戦友になりましたけど。昔は上手い作品を描く奴が本当に殺してやりたいくらい憎らしくてね。なんか変な妬みですね。そういう気持ちにその時は気が付かないんですよ。ただ「なんでこんな嫌な気持ちがするんだろう? 悶々とした気持ちになるのはなぜだろう」って。それは自分が置いていかれる恐怖だったんでしょうね。だけどそんな気持ちは、描き手は誰でもね、多かれ少なかれ持つものだけど。それが自分を高めるんだよね。ようし見ていろ、そういう気持ちにならないように頑張るぞってエネルギーの元になりますしね。コミティアに出ると、そういうことを毎回感じる訳ですね。すごくいい空間ですね。
中村ちば先生にこれからもそう言っていただけるように、頑張っていきたいと思います。
ちば我々も本当にこんな空間をもっと早く欲しかったなぁ。そうやって仲間に会いに行ける。そのために描き溜めた作品を本にして持って行く。相手の作品を見ると同時に自分のも見せるというね。なんか最近はプロの人たちも結構参加しているようですね。
中村たとえば大ベテランのみなもと太郎先生※注14のような方が「自分の本を直接読者に届けたい」って出られたり、若くてまだデビューしたばっかりだけど、もっと一杯描きたいという人もいます。雑誌ではボツになったけど、自分はこれをちゃんと人に見せたいって作品を本にしたり、最近は雑誌連載しても単行本にならないことも多いので、自分で同人誌にしたりとか、色々なケースがありますね。そういった意味では本当にプロもアマも関係なくコミティアに参加してくれる感じですね。私は創作にはプロもアマもないと思っているんです。
ちばその通りですね。だからその作品次第なんです。描いた人間が誰だろうと、どこに載っていようと、その作品で感動するものや笑わせるものがあれば、もうそれは素晴らしい作品であって、本当に新人もベテランも、プロもアマチュアもないですね、漫画っていうのは。
中村昨年(2014年)、出版した『コミティア30 thクロニクル』は、過去30年のコミティアで発表された同人誌の中から、プロもアマも関係なく、私が面白いと思った作品を収録させてもらいました。読まれるのも大変だったかも知れませんが、ご感想をいただけたら嬉しいのですが。
ちばこれは本当に宝物が凝縮されていますね。一作一作選ばれただけのものがぎっしり詰まっていて、読むのに時間がかかるけど。とても貴重な漫画史の資料だと思います。
注10 | 『COM』や『ガロ』…『COM』(虫プロ商事/1967~1973年)では手塚治虫が「火の鳥」を連載。『月刊漫画ガロ』(青林堂/1964~2002年)では白土三平の「カムイ伝」が看板となった、それぞれ作家性の強い、実験的な作品を掲載することを編集方針とし、一部に熱狂的な支持を得て、才能ある漫画家を多数輩出した。 |
注11 | つげ義春…漫画家。『ガロ』で活躍し、「ねじ式」「無能の人」など、シュールかつ叙情性の強い作風で人気がある。 |
注12 | 肉筆回覧の同人誌…当時は自費出版が普及していなかったため、肉筆原稿を綴じて本を作り、仲間内で郵送して回覧した。石森章太郎が高校生の頃に主宰した『墨汁一滴』などが有名。 |
注13 | 山川直人…漫画家。その叙情的な作風から「漫画界の吟遊詩人」とも呼ばれる。代表作「コーヒーもう一杯」。 |
注14 | みなもと太郎…漫画家。1967年デビューの大ベテランだが、コミケットやコミティアにも定期的に参加。代表作「風雲児たち」。手塚治虫文化賞など受賞歴多数。 |
プロとアマチュアの違いとは?
中村私にとって永遠の疑問なので、ちば先生にあえて伺いたいのですが、プロとアマチュアの違いってどこにあると思われますか?
ちば(しばらく考えて)…変な話ね、私は昔から馴染みの編集長にずっと言われてたんです。「ちばさんはいつまで経ってもアマチュアだね」って。「プロはね、締切りをちゃんと守る」(笑)。
中村いい言葉ですね(笑)。
ちば「プロはある程度面白ければもういいや、と考える。それをちばさんは完璧を目指そうとして、描いたり消したりを繰り返す。それはアマチュアだよ」と言われました。でもこれは自分の持って生まれた資質なのでしょうがない。もうちょっと面白くなるんじゃないかな?もうちょっと判りやすくなるんじゃないかな?といじっている内に判らなくなっちゃう。プロっていうのは、もっとこう、さらさらっと鼻歌混じりで名作をしゃしゃって描けるような人のことを言うと思うんだけど。私は苦しんで苦しんで描いているので、自分はいまだにアマチュアだと思っています。
ただね、漫画に関わることでなんとか生活しているので、そういう意味ではプロって言われればプロですけど。その辺でご判断ください(笑)。
中村とても感激する言葉をありがとうございます。最後に、いま大学で指導されている学生さんたちや、コミティアに参加する作家たちも、ちば先生にとっては後輩だと思うのですが、その人たちに伝えたいことはありますか?
ちば私はよく「漫画は我慢」って言うんですよ。我慢して我慢して、自分が我慢して人を喜ばせる。人を喜ばせるためには、自分は少しくらい迷って苦しんだりするのは、これは当然なの。だけど良いものができた時は、本当にみんなが喜んでくれる。「嬉しい。明日生きる希望ができた」と思ってくれる人もいるかも知れない。漫画って、人にやる気を起こさせたり、生きる力を与えたりするし、人間ってバカだなぁとか、なんでこんなにちっぽけなんだろう?とか、なんて素晴らしいんだろう!とか、色んなことを描ける。しかも判りやすく描けるんだよ。みんなそういう力を持っている。魔法の杖を持っているの。だけど、それを上手く使いこなすのが難しいんだよね。
いま学生たちに教えていると、みんなそれぞれ向いている方向が違うんです。こういうのが描きたい、ああいうのが描きたい、と試行錯誤している。それをやっている内にだんだん自分が一番描きたい世界、自分が向いている世界っていうのが見えてくる。でもそれは石炭かダイヤモンドかっていうような、玉石混交の土の中を掘って掘って掘って、どんどん掘っていかないと見つからない。それだけ自分の資質を見つけるのは大変なんだけど、それでも掘り続けることが大事だね。
我が身を省みて、大変だなぁと思うけど(笑)。
取材・2015年11月5日