Creator's Story 西義之

いま幅広い世界で活躍する表現者たち。その創作の原点から、いかにして現在の個性を手に入れたかを探るインタビューシリーズ。第2回は『週刊少年ジャンプ』で活躍後、不遇の時代を過ごすも同人活動をきっかけに復活を果たした西義之さん。好評だった『ティアズマガジンVol.120』FrontView記事に取材を重ねました。奇譚なく溢れる魔法のような言葉の数々をお届けします。

(取材:吉田雄平)

魔法の仕事に憧れて

マンガ家になろうと思ったのはいつ頃からなんでしょうか?

子供の頃から夢は「魔法使い」か「マンガ家」でした。魔法使いは周りにいないし、ちょっと難しそうだから第二志望のマンガ家でもいいやって(笑)。マンガを描いたのは小学校2年からです。何の影響を受けたかといえば5つ上の兄貴ですね。兄貴も僕もファンタジーが大好きで、それこそ日本にファンタジーが大々的に上陸する前の頃からどっぷり浸かってたんですよ。PC─98というパソコンで「ザ・ブラックオニキス」(※1984年発売。日本初のファンタジー・コンピュータRPG)というゲームで遊んだり、「ウォーロック」というゲームブックの雑誌や「魔法の国ザンス」「ドラゴンランス戦記」のような海外ファンタジー小説を読みまくってたんです。そのうち兄貴が「ファンタジーのマンガはまだこの世にない。俺が描く」って言ってゴブリンとかオークとか出てくるマンガを描き始めて。それが今見てもクオリティが高いし凄い格好良くて、僕も真似して描くようになったんですよね。

多摩美術大学に入学されたのはマンガの勉強のためだったんでしょうか。

親父が凄く厳しい人でマンガ家になることを猛反対されたんです。「好きなものでお金を稼ぐことというのは、自分の魂を売ることだ」なんて言われて。それで諦めたフリをして、イラストレーターになるって言って美大に進学したんです(笑)。色彩の勉強のつもりで染織デザインを専攻して、あと美大って変な人がいっぱいいるだろうから取材になるかなとも思って(笑)。実際に「才能と努力」っていう「ムヒョとロージーの魔法律相談事務所(以下、「ムヒョ」)」の一番の題材を得ましたし、「多摩火薬」のメンバーに出会うきっかけにもなりました。

「多摩火薬」は大学生時代に組んだマンガ家ユニットのことですね。「多摩火薬」名義で『週刊少年ジャンプ』(以下、ジャンプ)の賞を受賞されていますが、狙いは最初から『ジャンプ』だったんでしょうか。

仲間4人で原作担当を変えたりしながら合作して描いてたんです。『ジャンプ』は狙っていたわけじゃなくて、ジャンケンで決めたんですよ。4人それぞれ勝った時にどの雑誌に出すか決めていて、勝ったヤツがたまたま『ジャンプ』だった(笑)。「多摩火薬」という名前も電話帳めくって決めたくらい適当でした。でも楽しくやってましたね。

大学卒業後、『ジャンプ』でデビューするまでの数年はどうされていたんでしょうか。

親父からは「在学中に食えるようになれ」と言われていたので家を追い出されまして(笑)。アシスタントにいっぱい入ってました。小畑健先生、荒木飛呂彦先生、村田雄介先生、ガモウひろし先生…それ以外にも数えきれないくらい行きました。現場はとてつもないプロフェッショナルの方ばかりで、とにかくマンガの構成力、画面の成立のさせ方が凄くて感動しました。そんな方たちがどうすれば美しい線が引けるか切磋琢磨してるんですよ。それまで楽してマンガを描くことばかり考えていたんですけど、線で表情を与えるという行為はとてつもない修練が必要なんだと分かりました。

『週刊少年ジャンプ』の連載と打ち切り

2004年には「ムヒョ」の連載が『ジャンプ』で始まります。週刊連載は大変だったと思います。

週刊は普通にきつかったですね(笑)。でもそのヤバい状況を楽しんでました。最初は19ページを一週間で描くのは狂気の沙汰だなと思ったんですけど、どんどんペン入れが早くなっていきました。最後は1日5枚6枚なんて当たり前で、19枚全部描いたりするくらい鬼のような速さで、〆切を前倒していたくらいでした。スタッフにとにかく恵まれていたのが大きいです。

「ムヒョ」は2008年に終了しますが、打ち切りということだったんでしょうか。

打ち切りです。「『エンチュー編』の後に5〜6話やって完結させて次の作品を」という感じで言われたんですけど、僕が嫌だって言って続けさせて貰ったんです。編集部はエンチュー対ムヒョという構図が一般読者に受けていた部分で、それがなくなれば人気が落ちると考えていたんでしょう。その分析は正しくて、見事に人気が落ちていきました。描きたいことが沢山あって、色んな前振りをしていたのに置き去りにしてしまった。ファンの方達を思うと胸が痛かったです。

翌2009年には「ぼっけさん」、2013年には「HACHI ─ 東京23宮 ─」を『ジャンプ』で連載されますが、どちらも1年未満の打ち切りで、長く苦しい時期があったように思います。

「ムヒョ」は「この物語が描きたい」という気持ちで描いていたんですけど、好き勝手やって打ち切りにしてしまったプレッシャーがありました。その後『ジャンプ』を意識して「売れるマンガをちゃんと描こう」って思ってしまったんです。その気持ちを燃料にしてマンガを描く人間ではないことに気づかないまま、「王道」っていう単語に踊らされてたんですよ。僕以外にも同じように苦しい思いをした『ジャンプ』の作家は沢山いると思います。
技術だけは身についてるので一見すごく面白そうなものは描けるんですけど、描きたいものが無いから空っぽなんです。描く目的を完全に失っていって、マンガを好きではなくなっていく感覚がありました。「ムヒョ」の時の「この物語が描きたい」という感覚を取り戻すきっかけになったのは「魔物鑑定士バビロ」(以下、「バビロ」)です。

「バビロ」は2014年に『ジャンプNEXT!!』で連載された作品で、現在は同人誌で続きを発表されてます。どのように生まれた作品なんでしょうか。

「バビロ」の第一稿は「ぼっけさん」の打ち切り直後にもう描いていたんです。「よく分からないけど何かとんでもない失敗をしてしまった。これはダメだ」と思って、まだ感覚的に残っていた「描きたいもの」を描いたんです。当時の担当にはボツにされてそのままになってたんですけどね。
ずっと眠っていた「バビロ」のネームを思い出したのは2013年頃です。いよいよ自分のマンガを見失ってきた時に「バビロ」は今あるネームの中で唯一自分の原型を留めている作品じゃないかって思って、すぐ連載ネーム用に描きなおしたんです。一話分を描いて担当に見せたら「めちゃくちゃ面白い。なんで隠してたんですか。これをやりましょう!」と言ってくれて。「バビロ」を2話、3話と描いてるうちに「この物語が描きたい」という気持ちを久しぶりに取り戻せてきて、「良かった。これで大丈夫だ」って思ったんですよ。

バビロ」は2015年2月に単行本1巻が発売された直後、売上不振のために唐突に連載終了とされてしまいました。売上自体はそこまで悪くなかったように見えたのですが、それまでの結果が悪かったのも影響していたのでしょうか。

そうだと思います。それでまた目の前が真っ暗になりました。港から出港しようと思ってたら船がなくなったような感じです。感覚的にはマンガを描くパワーが戻ってきていて、良い出来の作品も沢山描けてたんです。作品を発表したい気持ちも溢れてました。でも掲載の権利が殆んど得られなかった。そのうち精神的にも経済的にも圧迫されてきて、このままだとマンガ家としては消えていくしかないという状況になって…。それでずっと躊躇していた同人誌を発表しようと決断したんです。「バビロ」の移籍先が見つからなかった時に、同人誌という手があるんじゃないかとはずっと思っていました。

同人活動で広がった世界

同人誌の文化というのはどのような認識だったんでしょうか。「ムヒョ」の二次創作同人誌なんかがあるのはご存知でした?

「ムヒョ」の連載時はテンパっていたので、よく分かっていなかったです。でもファンの方が送ってきてくれたり、知り合いが買ってきてくれたものを読むと、誠心誠意愛して描いてくれてるのが分かって、なんて良い世界なんだろうと。でもプロである僕がそこに参加するのは許されないことだと思ってましたし、周りの人たちもそう言ってました。
同人誌をどうやって作るかも知らなかったので、PICOさんという同人誌印刷所に行って、担当の方に一から教えて貰いながら最初の同人誌を作りました。それで2015年10月に『西先生んちのペンじくさぶろう』という同人誌を出して、とらのあなさんに委託したんです。委託が始まったらファンの方がすぐ気がついて喜んでくれて、感想も沢山もらいました。そこでようやく新しい扉がギィーと開いて、マンガの感覚を取り戻した手応えを感じましたね。

その翌月に発行された『Magic Low Diary』は、とらのあな同人誌売上ランキングに何日も1位にも入り、注目を集めました。

『Magic Low Diary』は「ムヒョ」の番外編的な内容だったので、厳しいことを言われるのを覚悟して出しました。ついてきてくれているファンの方々には、僕の描きたいという気持ちを汲み取って寛容していただいたと思ってます。担当編集にも出すという話をしたら良い顔はしなかったですよ。でも結果的にランキングに入ったことで、僕の作家としての評価は良い方向に変わったと思っています。ダメだと思っていたけどまだ価値があるんだって。

コミティア初参加はその後の2016年2月ですよね? 同人誌即売会のサークル参加も初めてだったと思うのですが印象はどうでした?

即売会のこともよく知らなくて、コミティアのことはPICOの担当さんに教えて貰って申込したんですよ。その前の冬コミに一般参加で予習して。コミティア当日は人が来るかも分からないし、凄くドキドキしながら参加しました。結果的にいっぱいの人が来て、みんな喜んでくれて本当に嬉しかったです。会場の空気全体がファンとの交流を包んでくれていて、すごい安心感がありました。
まず作品が発表できる、さらに人と交流ができる。待ち望んでた人に手渡し出来るし、ニコニコ買ってゆく姿を見れる。夢のような場所ですよね。いるだけでMPが全快する。コミティアはハリー・ポッターのダイアゴン横丁みたいな、とんでもない特殊な魔法使い達が店を開いて魔法を売ってる感じがするんですよね。毎週あったらいいなって思ってます(笑)。

2016年3月には『モーニング・ツー』に不定期掲載の「エルフ湯つからば」第一話が載り、翌月には『ヤングジャンプ』で「ライカンスロープ冒険保険」の連載が開始されます。「ライカンスロープ」は『となりのヤングジャンプ』に移籍しつつ、1年以上の長期連載となっています。

連載の話はもともとあったんですけど、同人誌を出さなかったらこうはならなかったですね。基本は週刊連載なんですけど、描かない週を貰ってますし、一話あたりのページ数も少なめです。こんな好待遇の理由は、最初に「同人誌も描きたい」ってちゃんと言ったからなんです。これ以外描かないと僕は具合悪くなりますと。それで連載の話は通らないかもしれないけど、それでもいいやって思えるぐらい度胸がついたんですね。
「同人誌がある、僕にはみんながいる」そう思っていいんだなと。商業の作家さんが同人誌やると「甘えだ」とか「逃げだ」とか意地悪なこと言われるじゃないですか。そんなことない。やってみて、むしろ攻めだなと。だって、つまんなかったらダイレクトに悪い評判が広まる怖れがある世界じゃないですか。商業より逆に厳しいんじゃないかとか思ったりしますよ。

こちらとしては逃げだなんて全く思わないんですけど、気にする作家さんがいるというのも分かります。一方で逃げ場がないと潰れてしまう方もいるんじゃないかと思うんです。

編集者の希望を聞く、すり合わせをして描くって仕事を貰うために必要なんですけど、一番つらい作業なんですよ。今まさに苦しんでる新人の方はいっぱいいると思います。商業の世界は凄腕の漫画家の方々が沢山いて、並んで載るために時間がかかるのは当たり前なんです。でも、担当にネームを出し続ける日々だけでは、いつか心が折れてしまいます。
だからマンガを描いていて楽しいと思う場所を他に作っておくべきなんです。コミティアなりコミケなり、ピクシブ、ツイッターでもなんでもいいです。それを逃げ場というなら逃げ場で構わないんです。「自分は発表する力がある」というのが分かれば続くと思うんですよね。創作の火は常に燃やしておくべきですよ。創作ってその人の心が自由であることが前提ですから、発表の場だって自由って考えていいんです。
ボツだったとしても自分が面白いと思った原稿は、ペン入れして発表しちゃえばいいんです。完成すれば必ず見てくれる、喜んでくれる人がいて、絶対に糧になります。好きだと思うものを忘れずに、否定することなく、手を止めずに取り組んでいくのが大事なんです。僕もギリギリまで追い詰められたからこそ自由の大事さ、創作に対する心構えが分かるんですよね。編集は何か言うかもしれません。でも最終的な結果は作家が全て受け止めなきゃいけないんです。だから作家が判断していいんです。

創作の源泉を探る

マンガをどのように考えて描いてらっしゃるんでしょうか。

プロットも書きますけど描いてる間まったく見ないですし、ロジカルな格好いい作法とか特にないんです。自分から湧き出る「もやもやした何か」を描くんです。僕は自分の感覚に凄い興味があって、ニュースとか見てても「なんでこんなことするんだろう?」とか「なんでこれに対してこう思うんだろう?」とかずっと考えてるんです。それを無意識や衝動みたいなところまで探っているとキーワードが見えてくる。例えば「嫉妬してる」とか「お金が欲しい」とか「おっぱい揉みたい」とか(笑)。そういう衝動みたいな欲望って人間なら絶対に持ってるんですけど、下手すると犯罪に走ることになるので皆隠し持ってるんですよね。
そうした願望を叶えるのがエンタメで、マンガは人間のドロドロしたものを描き続けてきたからこそ受けているじゃないですか。僕はそういう生々しいドロっとした、グチャッとした感覚が好きなんです。それを誰かに分かって貰いたい気持ちでマンガを描いてるんですよ。ドログチャなものだから伝わらない、引かれることも多いんですけど、分かっててもさらけ出しちゃう。やっぱり100人いたら100人に響くような、真の王道を描けるエンターテイナーの才能は無いんですよね。100人いたら1人狙いみたいな感じです。

最近はお仕事が忙しくなってペースは落ちましたが、始めてから約1年で9冊の同人誌を立て続けに発行されました。これまでの欲求不満がありましたか。

もちろんあります。水を得た魚というか。今まで水槽にいたって感じです。僕は気まぐれで飽きっぽいんで、色んな作品を並行して描ける同人誌のスタイルは相性が良かったんだと思います。同人誌のアイデアを考える時と商業誌のアイデアを考える時の広がり方が、自分でも不思議なくらい違うんです。とんでもない同人誌を出す計画が何冊もあるんですよね。今ありがたいことに仕事がどんどん来てるんですけど、同人誌を描きたいから忙しくしたくないって言ってます(笑)。
それまでずっと「マンガを描かなきゃ、やらなきゃ」って気持ちでやってたんですけど、同人誌を始めてからほっといても自然にマンガを描いてるんだって分かったんです。同人誌のおかげでその鎖から解き放たれたというか。やっとマンガ家人生が始まった気分ですよ。いま最高に楽しいです。

辛くてもマンガを描き続けてしまう、その魅力はどこにあると思いますか。

面白い小説って本を開けた瞬間にばーっとその世界に入っていけるじゃないですか。マンガはそんな世界を新しく描けるのが最高なんですよ。魔法使いとしてその新しい世界を見つけ、そこに冒険に行く感覚ですね。旅の道具が詰まったリュックを背負って、霧の立ち込める朝の街に電車が来るんです。どこいくかわからないし、切符も片道しかなくて戻れないかもしれない。でも乗るしかない。そんな悪魔の列車に乗って旅立つ。それがもうたまらない。時間忘れさせてくれるし、代えがたいじゃないですか。どんなに辛くても技を研磨する動機になるし、押し上げる原動力になりますよね。つまんなかったらすいませんって感じですけど(笑)。

取材:2017年10月18日

「ムヒョとロージーの魔法律相談事務所」作品紹介
 『週刊少年ジャンプ』で2004〜2008年連載。単行本全18巻(文庫版は全10巻)。舞台は現代日本、人に害を与える霊に対し「魔法律」というルールの元、あの世へ送る能力を持つ魔法律執行人。その執行人に歴代最年少でなった天才・ムヒョこと六氷透。そして彼の助手であるロージーこと草野次郎の2人の絆と活躍を描いたオカルト・ファンタジー。2018年3月より『少年ジャンプ+』で「ムヒョとロージーの魔法律相談事務所 魔属魔具師編」がスタート。


「魔物鑑定士バビロ」作品紹介
 『ジャンプNEXT!!』で2014年連載。単行本全1巻(未完)。その後、同人誌で続編を刊行中。2017年10月現在、同人誌版は3作まで発行されている。人々の欲望に、魔力を持つ呪具で応える「魔物鑑定士」一族。主人公の高校生・オズは、同級生で実は魔物鑑定士だったバビロに異常に気に入られ、その「呪具」を使ったトラブルに巻き込まれていく。「ブラックドラえもん」的な存在であるバビロの異質なキャラクター像が恐ろしくも魅力的な作品だ。

「ライカンスロープ冒険保険」作品紹介
 『週刊ヤングジャンプ』を経て『となりのヤングジャンプ』で2015年から連載中。単行本は2017年10月現在2巻まで発売中。古き良きテーブルトークRPGを彷彿させるファンタジー世界で、魔王出現により現れた魔物退治を中心に生計を立てる冒険者たち。そんな彼らを優しく、時に厳しく(?)サポートする「冒険保険会社」社長&部長2人のお仕事の様子をコミカルに描いている。

西義之プロフィール

マンガ家。1976年、東京都出身。多摩美術大学美術学部デザイン科卒業。大学在学中に知り合ったメンバーで組んだマンガ家ユニット「多摩火薬」として活動後、2004年に『週刊少年ジャンプ』掲載の「ムヒョとロージーの魔法律相談事務所」で連載デビュー。インタビュー当時の2017年は『となりのヤングジャンプ』で「ライカンスロープ冒険保険」を連載中。

●ツイッター:https://twitter.com/nishiyoshiyuki

●サークル名「ナイーブタ」