コミティア40周年特別誌上企画
コミティア新旧代表座談会
1984年、コミティアは二人の青年の出会いによって誕生した。その二人の名は、土屋真志と熊田昌弘。コミティア実行委員会の初代共同代表となった彼らは、コミティア2までの短い期間で中村公彦に代表を継ぐことになるが、文字通りコミティアの生みの親と言えるだろう。
本記事では40周年の特別誌上企画として、長らく音信不通だったお二人をお呼びし実施した、コミティア新旧代表4名による座談会の模様をお届けする。
初代代表
土屋真志
1962年生まれ。コミティア実行委員会・初代共同代表。1984年に熊田とコミティアを企画し、COMITIA2まで初代共同代表を務めた。「COMITIA」を命名し、コミティアの趣旨や基本方針を定めた。
初代代表
熊田昌弘
1963年生まれ。コミティア実行委員会・初代共同代表。1984年に土屋とコミティアを企画し、COMITIA2まで初代共同代表を務めた。バイクメーカーのデザイナーとして活躍。「COMITIA」のロゴをデザインした。
二代目代表
中村公彦
1961年生まれ。コミティア実行委員会・二代目代表。まんが情報誌『ぱふ』の編集者として土屋、熊田と共にコミティア立ち上げに関わり、COMITIA3からCOMITIA138まで代表を務めた。現在はコミティア実行委員会会長。
三代目代表
吉田雄平
1980年生まれ。コミティア実行委員会・三代目代表。スタッフ、副代表を経てCOMITIA139より代表を務める。本記事の編集・構成を担当。
久しぶりの再会
吉田:中村さんと土屋さん、熊田さんの再会は何年ぶりだったんですか?
中村:二人とも連絡が取れた後にコミティア会場でお会いしましたけど、本当に久しぶりでした。
土屋:僕は今年のコミティア147に来て中村さんと会ったのが、85年のコミティア3以来でしたから39年ぶりでした。
熊田:私は87年のコミティア8までスタッフをやっていたんですけど、それ以来は完全に離れてましたね。昨年5月のコミティア144で、36年ぶりのコミティアで、中村さんと会うのもそれ以来でした。
吉田:熊田さんと土屋さんは個人的に会ったりもしてなかったんですか?
熊田:コミティア3以来、会っていなかったですね。
中村:土屋くんは同人系の交友関係とほぼ縁を切ってたみたいだからね。
吉田:久しぶりに会ってどうでしたか?
土屋:お互い年取ったなあっていうぐらいですよ(笑)
熊田:でもマインドは変わってないですよね。高校生の頃から精神年齢が止まっちゃってて(笑)
吉田:20年に『ティアズマガジン』で「コミティア魂」の連載が始まった時、お二人に取材したいという話になって、熊田さんのご実家の番号宛に中村さんが一度ご連絡したと思います。
熊田:留守電が残っていたんですけど、着信履歴が出るタイプの電話機じゃなかったので番号が分からず折り返せなくて。その時はそのままになってしまいました。その後、早期定年退職をして時間が出来て、23年の2月にX上でコミティアの話題を出しつつ中村さんに呼びかけてみたら、運良く見つけて貰えたんですよ。
中村:それで連絡を取り合って、コミティア会場で会うことにしたんだよね。
熊田:同人誌からはすっかり足が遠のいていたんですけど、自分たちが始めたイベントが、こんなに大きく成長して盛況なのを見て嬉しかったですね。
吉田:一方で土屋さんの連絡先は見当がつかなくて、それで同姓同名の方をひたすらネット検索してたんですよ。そうしたらある日、おそらくこの人だという方を見つけたんです。そこを頼りに中村さんが手紙で連絡を取ったのが23年末でした。
中村:手紙を受け取った時、どう思いました?
土屋:運命めいたものを感じましたよね。もともと勤めていた保険関係の会社をちょうど去年の3月に定年退職して、別の関連会社に再就職したところだったんです。色々な余裕が出てきたタイミングだったのもあって「ああ、もう一回過去に向き合うか」と思いました。前の会社に在籍していた時だったら違っていたかもしれないです。
中村:土屋くんからの返事が届いた時、封筒の特徴的な筆跡を見て「土屋くんの字だ!」って、開ける時に手が震えました(笑)
吉田:土屋さんはコミティアが続いていることは知ってたんですか。
土屋:たまに噂を聞いたりすることはありました。でも僕は後を託した立場ですから、近寄らないようにしてましたよ。
コミティア以前の個人史
吉田:まずは熊田さんと土屋さんが出会う前のお話をお聞きしていきたいです。お二人とも今もマンガがお好きで、たくさん読んでいるというのはお聞きしてるんですけど、その原体験のあたりからお願いします。
土屋:中学生の頃、同じクラスの女子から、山本鈴美香さんの「7つの黄金郷」とかを借りて読んで、面白いということで少女マンガを読むようになりました。中学校の頃は同級生の女の子達に少女マンガをよく読ませてもらったんです。その後、男子高校に入っちゃったので借りる機会がなくなってしまったんですけど、アルバイトが出来るようになって自分で雑誌を買うようになりました。買ってたのは『LaLa』『花とゆめ』『ぶ~け』『別冊少女コミック』あたり。一条ゆかりさん、吉田秋生さんの作品なんかが特に好きでしたね。
吉田:『ぱふ』と出会ったのはいつ頃だったんですか?
土屋:82年の春頃だと思います。神保町の高岡書店で『ぱふ』を手にして、そこでマンガ同人誌やサークルのことを知りました。
吉田:中村さんと会って、『ぱふ』を手伝うようになったのは?
土屋:初めてお会いしたのは83年だと思います。MGMで何人か集まったところに中村さんがいて、それが縁で『ぱふ』に同人誌の書評を書かせていただくようになりました。
吉田:熊田さんもやはり子供の頃からマンガで育ったんですか。
熊田:子供の頃は手塚治虫の「鉄腕アトム」や「ブラックジャック」とか、少年マンガを読んで育ちました。元々読書好きで小説も読んでいたので、そのうち少年マンガよりも文学作品ともいえる少女マンガに惹かれるようになっていったんですよ。きっかけは萩尾望都さんだったと思います。それで中学生の頃は毎月古本屋でいろんな少女マンガ雑誌を手当たり次第買って読むようになりました。『ぱふ』はその前の『だっくす』として全国誌になったタイミングで買い始めたと思います。
吉田:とすると78年ごろですね。絵やデザインの仕事をしたいと思うようになったのはいつ頃からだったんですか?
熊田:絵を描くのは子供の頃からずっと好きで、本郷高校のデザイン科に入学しました。そこで同級生のMEIMU、えのあきら君たちと出会って仲良くなったんです。彼ら含む同級生のマンガ好き5~6人でコピー誌を作って、MGMに参加したりもしました。もっと作りたいよねって話はしていたんですけど、印刷費の問題とかもあって、高校在学中はそれだけでした。
吉田:そのメンバーがサークル「TEAM COMPACTA」(以下、COMPACTA)になるんですね。
熊田:そうです。卒業後に私が社会人になって印刷費が工面できて、最初に出したのはMEIMUの個人作品集でした。彼は初めて会った時から漫画家になると言ってて、すごく綺麗で可愛らしいマンガを描いていてファンだったんですよ。それをなんとか世に出したいと思ってたんですよね。その後、グループ誌の刊行を始めて、サークルのメンバーも広く募集して増えていきました。マンガを描かないメンバーも含めると多い時で30人ぐらいと連絡を取ってましたね。そういった連絡や本作りを全てを一人でやっていたせいで、後半は私がマンガを描く余裕がなくなっちゃったんですけどね。
コミティア誕生!
吉田:土屋さんと熊田さんが出会ったのはいつですか?
土屋:『ぱふ』に「クローズ・アップ」というサークルのインタビュー記事があったんですけど、そこでCOMPACTAを取材することになった時です。※『ぱふ』1984年6月号掲載
中村:その時は「今やるならCOMPACTAしかないよね」って感じだった。2月のMGMで大行列ができて話題になったんですよ。それまで評価されてる作家は上の世代だった中に、同年代の自分たちの世代が来たから期待感もあった。
土屋:COMPACTAの同人誌はすごくおしゃれでポップな印象でした。当時僕が好きだった森博嗣さん達のサークル「ジェット・プロポスト」の作品は抽象的、観念的な色合いが濃かったんですけど、それとは真逆の雰囲気に惹かれました。実際に取材してみたら、楽しく作られてるなぁというのがすごくよく分かって、親しくお話をさせていただくようになりました。コミティアの話はいつしたんでしたっけ?
熊田:84年の4月1日にインタビューを受けて、そのすぐ後ですね。インタビューの時に土屋さんから「うちに地方の同人誌がいっぱいあるから、良かったら見に来る?」って言われて。後日、社交辞令とも思わず喜んで遊びに伺っちゃったんです。そこで色んな貴重な地方同人誌を見せてもらっていたら「こういう地方の同人誌を扱うような即売会をやれたらとか思うんだけどねぇ…」って、ポロッと土屋さんが言って、「え、じゃあやりましょうよ!」ってすごい軽い感じで、やろうって話になったんです。
土屋:そう言われればそうでしたね。
熊田:私はカタログ作りやデザイン的なことが一通りできるし、COMPACTAのメンバーも沢山いるのでスタッフを確保できる。土屋さんは『ぱふ』や作家とのコネがあるし、運営実務を分かってる。それでトントンと話が決まっちゃったんですよ。中村さんにコミティアの相談に行ったのが5月3日ですから、初めて会って1ヶ月くらいです。
吉田:それは早いですね! 土屋さんはJPマニア(※)東京支部長として「コミックカーニバル」(以下、コミカ)にスタッフとしても関わってらっしゃって、それも活きたんですよね?
※サークル「ジェットプロポスト」ファンの総称。同サークルの会報名でもあった土屋:はい。僕は東京のファンの連絡取りまとめ役みたいな感じのことをしていて、その関係でコミカの当日作業もお手伝いしてました。ただ事前の作業には関わってなかったですよ。
吉田:土屋さんの「即売会をやりたい」という気持ちはどこから来たんでしょうか?
土屋:『ぱふ』で同人誌の書評を書かせていただく中で、自分が即売会に行っても手に取らないような、自分の趣味とは違う作風でも面白い作品に触れることで視野が広がったんですよね。そういう経験をもっと沢山の人にもしてもらいたくて、いろんな作品を見てもらう場を提供したいなと。時を同じくしてコミカの継続が難しいかもという話もあって、自分に出来ることはないかなと思っていたタイミングでもありました。
吉田:コミカは創作中心で、コスプレやパロディを許容はしていたわけですけども、完全に排除したオリジナルオンリーにしたのはなぜでしょう?
土屋:サークル側も読者側も作品に向かい合って欲しいって気持ちがありました。コスプレや二次創作は邪道という思い込みが心のどこかにあったのかもしれないです。単純に明るいノリがあまり好きじゃなかったという話ですけどね。男子高で根暗な生活を送ってるとそうなるんですよ(笑)
中村:いやー、俺もそうだったなあ。俺も中高が男子高。
熊田:私もです。みんな男子高じゃないですか。
吉田:なんと私も…(笑)。コミティアと近いルールの創作オンリーだと「MGM」が先行してありました。
中村:たとえば「MGM」のスタッフになるっていう選択肢もあったと思うんだけど、そういう風にはいかなかったんだよね?
土屋:僕にとって即売会活動の根本はコミカでしたし、「MGM」とはやりたい事が違ったからですね。僕としてはマンガ同人誌の世界に生涯を捧げるような気持ちもなかったんです。あくまで部活の延長というか、自分にできる範囲でやるという割り切った気持ちでしたから、正規のスタッフになるという選択肢はありませんでした。
吉田:熊田さんはコミックマーケット26のカタログ(1984年8月)に「コミケに存在価値を」という、コミケの問題提起をする文章を寄稿されてました。コミケへの反発はあったんですか?
熊田:反発というより、若かったので思っていることをオブラートに包まず書いてしまいました(笑)。コミティアをやる動機という訳ではなかったですね。
吉田:コミティアの名称はお二人のどちらが考えたんですか?
土屋:第1回のカタログに由来や経緯が書いてあるんですけど、こういう小賢しいこと考えるのは僕なんですよ(笑)。最初は「コミックなんとか」みたいにしようとしてたんですけど、どうしても良い言葉が思いつかなくて。当時、法学部でローマ法を勉強していて、そこで古代ローマの集会場「COMITIUM」の複数形で「COMITIA」という言葉を知って、そこから持ってきました。ちょっとこじつけもありますね。
第1回開催へ
吉田:コミティアの企画にあたって『ぱふ』を巻き込んだのはどうしてですか?
土屋:地方のサークルを集めるために名前が必要だったからです。最初から『ぱふ』に同人誌を送ってきているサークルに声をかけるつもりでしたから、案内を送る時に『ぱふ』の名前があれば信用してくれるだろうと思ったんですよ。それを利用しない手はないですよね。
中村:この発想が素晴らしいですよね。当時だと商業誌とタイアップするって挑戦的な話で、アレルギー反応だってあったはずなんです。そのメリットとデメリットを考えて、メリットを取ったっていうスマートさがある。
土屋:中村さんが信用できる人だったというのも当然ありましたよ。
吉田:『ぱふ』が入れば間違いなく成功する、という確信がありましたか。
土屋:開催できないはずはないと思いましたし、それは間違いなかったです。でも成功するかどうかとはまた話が別なんですよね。第1回は46サークルでしたけど正直ね、思ったほど人が来なかった(笑)
中村:それはね、俺も思ったな(笑)
吉田:印象深いことはありますか?
土屋:地方のサークルの人たちからはすごく感謝されました。預かった同人誌の価格が1冊500円だとしたら500円で売って、売上の500円全額を支払ってたから。こっちは持ち出しばっかりになっちゃいましたけど、全国のサークルの人たちといろんなコミュニケーションが取れたっていうのは楽しかったですね。
中村:委託ができたのは、宅急便が普及したタイミングというのもあったよね。
土屋:ただ全国から届いた段ボール箱が部屋に積み上がりましたし、在庫管理や売上計算も大変でした。送り返すのも面倒だから2回目も参加される方はこのままお預かりしますみたいにしたんですけど、親からは「床が抜ける」とか散々文句を言われました(笑)
熊田:いろいろと若かったからできたというか、後先考えずにやってた気がしますね。
吉田:最初のコミティアのスタッフは何人くらいだったんでしょう?
土屋:多分全部で20人ぐらい?
中村:半分以上がCOMPACTAで残りが土屋くんの友達と俺の友達だったと思う。
土屋:JPマニアの東京支部の友達に来てもらいました。月一回、新宿の今はなき「カトレア」っていう喫茶店でJPマニアで2~3時間くらいおしゃべりをするっていう集会があったんですよ。そこの方たちに声をかけました。5~6人ぐらいだったと思います。
中村:そういえば最初は打ち上げもやらなかったよね。
土屋:でも終わった後、スタッフの人たちに対する感謝を示さないといけないじゃないですか。お金もなかったのでそこも気を遣いました。それこそ翌月のカトレアで「あの時は皆さんお疲れ様でした…」っていうぐらいだったと思います。
代表交代!
吉田:コミティア2の後に土屋さんの就職が決まって、続けられないということになってしまうんですよね。
土屋:最初は熊田さんに話をしたと思うんですけれど。熊田さんにも無理が言えないっていうのは分かってはいたんです。そもそもが2人で1人っていうようなところでやってきてた訳ですから、押し付けるわけにもいかなかった。
熊田:もったいないなとは思いましたけれども、土屋さんが頭脳担当で、私はビジュアル担当という形だったので、土屋さんなしで代表を続けることはできなかったです。
土屋:ましてや中村さんに押し付ける気もなくて、畳むつもりだったんですよ。それで中村さんに「本当にすみません。コミティアを2回やらせていただいたんですけど、就職した会社の配属先が東北ということになってしまって。ちょっと続けられないと思います」って説明して、本当に申し訳なかったです。
中村:『ぱふ』後援で始めるという話を社長に嫌な顔されながら通したので、2回でやっぱり終わっちゃいますっていうのは言い難かったですね。熊田くん一人ではやらないって言ってるし、続けるとしたらもう俺がやるしかないって流れだったんだけど、ちょっと考えさせてって時間を貰ってから「やります」と伝えたと思う。コミティアは小さいけど、それなりにうまくいって充実感もあった。何か良いものが生まれる気がするし、終わらせたくないって気持ちは強くあったと思う。
熊田:ありがたかったです。意義のあるイベントだとは我々も思ってたんでね。
土屋:その後一度だけコミティア3に顔を出させて貰ったんですけど、本当にもう恥ずかしくて申し訳なくてですね。簡単にご挨拶をして、続けていただく以上は自分はもう一切口も何も出さないと割り切って、以降はずっと参加してなかったです。
吉田:熊田さんはしばらくスタッフとして続けたんですよね。
熊田:8回まででしたけど、スタッフとしてはお手伝いできる限りはしようと思ってね。
中村:熊田さんのおかげでスタッフの人数がちゃんと集まってたのも開催できるなと思った理由だった。だからそこはありがたかったよね。
今のコミティアを見て
土屋:長く続ける、そのこと自体が参加している人たちにとって大きな財産ですよね。何事にしても長く続けるって本当に大変で、コミティアが40年も続いていること自体がもう素晴らしいと思います。続けていけば当然コミティアの中身の部分は変わって当たり前だと思っていたんですけど、創作・オリジナルオンリーであることや、コスプレが禁止であるとか、見本誌コーナーがあるとか、根っこの部分は変わっていなかった。そのこと自体がすごく嬉しかったですね。
熊田:本当にこんなに続くとは思ってなかったし、中村さんがここまで大きく育てて盛況になってるというのは嬉しかったですね。インターネットが普及していく中で消えちゃう可能性もあったと思うんですよ。
中村:コミティアの立ち上げから一番変えたのは同人誌を紹介するページをカタログの中で作ったこと。『ぱふ』の同人誌紹介コーナーの延長でもあるんだけど、お2人の中ではそこまで計画はなかったですよね。
土屋:なかったです。サークルは知ってても、その時に提供される作品の方まで踏み込んで、読んで紹介みたいな形でカタログを作るところまでは手が回ってないです。
中村:実際にやってみたら最初は「勝手に見本誌の批評をされた」ってサークルから反発もありました。それでも続けていって「コミティアはそういうスタンスだから」って納得して貰えるようになっていったんです。
土屋:久しぶりに僕が参加した2月のコミティアで素直に感じたのは「すごいな。嬉しいな」っていう気持ちですよね。自分たちが最初にやってた時とは規模がぜんぜん違いましたから、イベントの意味合いは全然違うと思いました。大きくなって、特別な場の提供をしている感じがしましたね。
中村:コミティアをやっていく中で「多くの人が集うことでイベントが持つ可能性が広がる」って思ったんですよ。コミケットも人が集まるから強いんだなと。だからちょっとずつ積み重ねて拡大していこうっていう発想になった。それで原画展とか商業誌とタイアップして、商業誌の読者を呼んでくる仕掛けを考えたりしました。そういう戦略を続けていって今の形になっていったんです。
「コミティア魂」の継承
吉田:『コミティア魂』や『コミティアの創り方』を読んでどう感じましたか。
土屋:中村さんはコミティアの最初から関わっていたわけですから、僕の記憶と違うところとかは全然なかったですよ。読ませていただきながら、自分の青春時代、お金はないけど情熱と時間があった頃を振り返って懐かしく思いました。あとは熊田さんを始めとした当時お世話になった方々に、改めてお礼とお詫びの言葉を言いたい気持ちにもなりましたね。
熊田:読んでその歴史を目の当たりにして、中村さんは本当にマンガの世界が好きなんだなっていうのを改めて認識しましたね。好きじゃないとこれだけ続けられないですからね。コミティアだけじゃなくて、大好きなマンガの世界が変わらず今あるのは、中村さんのおかげでもあるんじゃないかなということまで思ってしまったんですよ。
土屋:僕と熊田さんが最初にコミティアの基本方針を作って、今のコミティアに至るまで沢山の人たちが関わってきたわけですよね。その根幹には常に中村さんがいて、軸をブレさせないようにしてやってこられたというのを読む中で感じました。いろんな紆余曲折とか葛藤とかご苦労…直近で言えばコロナであったりを乗り越えた結果、沢山の人たちの想いが一つの魂となって受け継がれているんだなと。変な言い方ですが、それを面白く思いました。
吉田:中村さんが感激してますね。
中村:ちょっと言葉が出ない…。
熊田:本当、中村さんが魂をブレずにきちんと繋げてくれたというところをすごい感謝しておりました。中村さんがいてくれたから…って、泣かせに入ってしまった(笑)
土屋:僕個人としても紫綬褒章みたいなものをお贈りしたいですよ(笑)
中村:私は会長として一歩引いた立場になって、今は吉田を始めとして次の世代が中心になっています。次の世代に対して何か言葉をかけて欲しいです。
土屋:コミティアという場をより長く続けていただきたいという、その一点だけですよね。コミティアは見たことのない魅力的な作品に出会えて、それを実際に手に取って読んでもらえる場所。そういう場所なんだということを思って、大事にしていただけたら嬉しいですね。個人的な願いで言えば、その雰囲気は、例えばコスプレを禁止してますとか、目に見える部分も大きいと思いますから、そこも大切にしてもらいたいです。もちろん時代とともに変わらざるを得ない部分もあると思いますけどね。
熊田:私も土屋さんの言われた通り。創作物を実際に手に取って見られるっていう場として、これからも今の形をあんまり崩さないようにしつつ続けて欲しいです。真剣に作品を手に取って吟味するための場だと思うので、お祭りのような雰囲気にはして欲しくないですよね。それが40年間ブレずに来た肝、大事な部分だと思いますから。
吉田:ありがとうございます。中村さんもほぼ同じことを言っていたことがあるので、びっくりしてます(笑)。変えるべきところは変えて欲しいけど、コミティアらしさを失わないようにしていってねと。そこは私も同感で、『コミティア魂』や『コミティアの創り方』の刊行は、「コミティアらしさ」を探求する意味合いもありました。その中で最後まで残っていた課題が、お二人から話をお聞きすることだったので本当に良かったです。それが40周年のタイミングで実現したのも奇跡的でしたね。今日は本当にありがとうございました!
(取材日:2024年7月13日)
(ティアズマガジン150に収録)