特別座談会 一コマ先の自由 ~マンガとコミティアの今、これから~ 後編
栗原良幸×飯田孝×コミティア実行委員会

前編はこちら

1984年に始まったコミティアの歴史は、マンガ表現のあり方を見つめてきた40年といっても過言ではない。その現在の到達点、そして目指す未来とは何か。前号に引き続き、『モーニング』『アフタヌーン』(講談社)の創刊編集長を務めた栗原良幸氏と、今年創刊15周年を迎えた雑誌『楽園 Le Paradis』(白泉社)と関連コミックスを全て一人で編集する飯田孝氏、二人の編集者に話を聞く。
数多くの漫画家・作品と向き合ってきた遍歴、そして「コマ」の連続により成立する『マンガ』という表現の可能性を伺った前編に続き、後編では40周年・150回を迎えたコミティアについて話を聞いた。長く参加してきた二人の想いやエールに加え、時に参加者に対する激励の言葉も。マンガとコミティアに熱い視線を注ぐ二人の境地と熱い言葉を存分にお届けする。

(取材/構成:コミティア実行委員会:吉田雄平、黒須洋行)

栗原良幸プロフィール
1947年生まれ。70年に講談社に入社。『週刊少年マガジン』の担当編集、80年~『月刊少年マガジン』編集長を経て、82年に『モーニング』、86年に『アフタヌーン』を創刊、兼務で編集長を務めた。多くのマンガ作品の編集に携わる一方で、海外作家の才能発掘にも注力。09年に講談社を退社した後、長年の功績により11年に第14回文化庁メディア芸術祭・功労賞を受賞。現在もマンガに強い関心を寄せている。

飯田孝プロフィール
1960年生まれ。84年に白泉社入社、販売部に配属される。93年『ヤングアニマル』編集部、96年『花とゆめ』編集部に所属。97年『ヤングアニマル』副編集長。06年に『メロディ』編集長。09年にコミックス編集部に戻り『楽園 Le Paradis』を企画・創刊。20年9月に白泉社を定年退職、その後もフリーとして同誌の編集を続けており、今年創刊15周年を迎えた。

(イラスト/鶴田謙二)

すべての作品は「コマ」になりえる

──後編ではコミティアのことを中心に伺っていきたいと思います。まずはコミティアに参加し続ける理由、感じている魅力について教えてください。

栗原:一言で言えば「5時間だけ出現する史上最大のオリジナル雑誌」ですね。開催中は会場中で子どもがクスクス笑っているような印象です。いまはマンガの技法を学校で教えたり、商品としてどう売るかを優先して考える時代です。そんな中で原点に近い「表現の楽しさ」を追求している驚くべき場所だと思いますよ。マンガの出発点って、幼児みたいな心で何かに笑ったり泣いたりしたい、させたいという気持ちだと思うんです。コミティアではマンガの幼年期が再生をくり返していると感じるんです。

飯田:コミティアの会場は実際の面積以上に、どこまでも広がってる感じがします。どんな作品が自分の琴線に触れるか、会場を歩いてみないと全く分からない。一期一会の緊張感があるんですけど、そのライブ感こそが創作の場なんです。だから栗原さんにコミティアを紹介したのもそうなんですけど、とにかくいろんな人に「コミティアに行って会場を回ると良いですよ」と勧めてます。

栗原:僕はコミティアで気がつけば「コマ」を探しています。この前、あるサークルが原宿をモチーフにしたタロットカードを売っていたんです。それは一枚一枚に原宿のいろんな要素が詰まっているイラストで「これが2コマ×50回の100コマあったらゴージャスだなあ」とすごく感心しました。

──マンガに限らない作品に宿る連続性のようなものがマンガ的であり、「コマ」になりえるということですね。

栗原:マンガに限らず、イラストであれ、アクセサリーであれ、また文章だって、何だって「コマ」になり得るし、あらゆる可能性があります。コミティアのサークルのジャンルに「その他」ってあるじゃないですか。あれは他のジャンルに当てはまらない作品のためなんでしょうけど、視点を変えればコミティアの作品は全部「その他」になるんじゃないかって思ってますよ。

飯田:確かに。その上で自ら「その他」ジャンルを選んでいる作家の作品からはプライドのようなものを感じることがあります。

──創作って突き詰めると1人1ジャンルなんですよね。コミティアの参加サークルが少なかった頃はジャンルで並べず配置をランダムしていた時もありました。実は「その他」のお話は以前、栗原さんに伺ったことがあって、感銘を受けたんです。「その他」はある意味で「真ん中」でもあると考えているけれども、参加者に姿勢として示せていないかもしれないなと。それで149からジャンル名を「その他・ノンジャンル」と変えました。ちょっとした言葉の印象って大事だと思うんですよね。

栗原:自分の感覚でいうとコミティアは何でも吸い込む「ブラックホール」です。何があっても良いと思います。編集をやっていて良い気持ちになれたのは、そういう自由な表現に出会った時でした。僕は新人編集者の時代からずっと隠し持っていた言葉があります。それは「個の自由と生存」です。

──個人が生きるため、つまり作家が自分の表現をするためには、何をしても構わないということですか?

飯田:マンガに限らず、創作って本来それくらい自由で過激なものですよね。でもそこまでの人はコミティアを回っていてもなかなか見かけない。本にする前に止めてしまうんでしょうか。

栗原:戦後生まれの団塊の世代は、日本で初めて大人になってもマンガを愛した世代です。僕には編集者としても時代への気負いがあった気がします。コミティアには自由がとても自然に備わっていて、「個の自由と生存」を突き詰める危うさも、皆で抱き留めて育んでいるみたいに感じます。あこがれてしまいますね。

──「これが描きたい」「これが楽しい」ならいいけども、「目立つためなら何でもやる」になると危険ですよね。実際に参加している作家に感じることはありますか?

栗原:自分のブースを離れられないからなかなか難しいっていうのは分かるんですけど、他の作家に触れる機会がもっと増えるといいですよね。美大生は先生よりも同級生から学ぶと言います。せっかくコミティアっていう史上最大の雑誌に参加しているわけですから。

飯田:サークルの中には友達に売り子を頼んで、他の作家のスペースを一生懸命回ってる人もいます。自分と同じ創作をやってる仲間に直接会いたい、話をしたいって。そういう意味でもすごく貴重な機会です。

栗原:僕の知り合いの何人かはコミティアに1回サークル参加したら、それで止めてしまったんですよ。聞いてみたら、1日ずっと自分のブースで過ごして、人があんまり来なかったりすると寂しいらしいんです。でも他の方のブースの様子を見て回ったりしていると、また違う印象を持てる気がします。

飯田:初めて申込するサークルの方って毎回どのくらいいるんですか?

──この数年だと毎回全体の20%を超えるくらいの割合ですね。

飯田:そんなにいるんですね。素晴らしいじゃないですか。

栗原:どうなるか分からないけど参加してみたい、という気持ちを持ってる人がそれだけいるのはすごいことですよね。

──コロナ禍でいったん減ってしまいましたけど、基本的には少しずつサークル参加者が増えていく傾向というのはずっと変わってないですね。

飯田:年4回というペースも多数の作家にとって良いリズムな気がします。『楽園』の年3回刊のペースもそういう感覚なんですけど、創作のサイクルとしてはそれくらいが心地良いイメージがあります。私から見ると週刊連載はもう、神の領域ですので。

クリエイティブな見守り

──初めてサークル参加する方でも楽しく交流できるようなフォローができると、コミティアはさらに大きく成長できるんじゃないかと思いますね。

栗原:コミティアを一つの雑誌と捉えて、「編集者」とか「プロデューサー」、「ディレクター」のような視点を入れると面白いかもしれない。コミティアでは毎回膨大な作品が発表されていて、その見本誌を読んでいるスタッフがいるわけじゃないですか。その知見を持って新しい括りを作られたら、今までにない才能の融合と進化が生まれるかもしれません。そうしていくことでコミティアには「コマの原点」から発生する、画期的な作品が生まれる可能性があると思います。それは商業誌の編集者にはできない方法論です。

──そう考えるとイベントの役割って発表の場を提供するだけじゃないんですよね。これまで問題がなかったやり方にしても改善点は常に問われていると感じます。

栗原:「2コマで100万部売り上げるマンガ」のような、商業誌を経由しないで世界的な評価を得る作品がコミティアから誕生しうると思っています。

飯田:最近のSNSでは2コマ3コマとか短いマンガも流行っていますから、栗原さんのイメージに近いマンガはネットにはいくつか例があるかもしれないです。ただコミティアでは、それを超えた作品が出るような期待感があります。SNSは世界中のどこからでも24時間見られて、投稿もできますが、コミティアはその対極です。そんな場所に作家が「自分の作品を確かめたい、可能性を模索したい」という気持ちで、作品を本のような物理的な形にまでして参加してくる。世の中が便利になるほど、コミティアはむしろ無くてはならない場所になっていくんじゃないかと思います。

栗原:コミティアは「クリエイティブな見守り」とでも言うべきサービス空間なのかもしれない。自由で新しい作品を生むための一つの試しは、全てのものがコマになりうるか考えてみることだと思います。「何を描くか」ではなく「コマの中にはあらゆる可能性がある」から出発する。例えば日本のマンガが世界に広めた発明の一つは、平べったい日本人の顔をユニバーサルデザイン化したってことなんですよ。でも今はちょっとそれが飽和状態になってしまっているように感じます。そうした中で新しい人物表現をする人がコミティアから生まれる可能性は大いにあると思いますよ。

──なるほど、創作発表の場としてより最適化し、先鋭化していくことでよりコミティアに参加する価値を感じてもらえるし、素晴らしい作品が生まれる可能性も高まるというわけですね。

栗原:『ティアズマガジン』の表紙にしたってそうだと思いますね。毎号このレベルの表紙を作れるコミティアはすごいんですよ。濃密なバロック絵画を軽々とコミックアート化するような描き方も見事です。これは毎回、コミティアの方で作家にオファーして内容を打ち合わせしているんですよね?

──はい。やり方はそれぞれですが、簡単に方向性の打ち合わせをした上で自由に描いていただいていくことが多いです。描いてくれてる方も、コミティアのことをよく知って、理解してくれていますので、何が良いのかをしっかり考えて描いていただいてるなと思います。

栗原:こういう一枚の絵をマンガの「コマ」の一つという発想で描くか、描かないかでずいぶん印象が違ってきますよ。そういう「コマ」感覚の絵やカットから、マンガのヒット作が出た例はいくつもあります。

飯田:一枚の絵からヒットが生まれることってありますよね。そういう絵って、大きさは関係ないんです。時には走り書きのような線だったりすることもあります。栗原さんが雑誌の編集長をやってた頃にもしコミティアに行っていたら、そういう作品に対してどう向き合ったと思いますか?

栗原:僕は相手の顔を見て少し話をしたら、この人はこういうのを描きたいだろうなという仮説が浮かぶことが多いです。それがはずれていてもいいんです。その作家の可能性を立体的に見られる感じになります。

飯田:そういう閃きは私にもたまにあって、コミティアの会場を回ってる時、基本的にあまり焦点を合わせないようにしてサークルを見てるんです。そうしていると「これは!」という本と出会えた時、ピントが合うような感覚があるんですよね。

読者に届く表現

──『ティアズマガジン』の話も出たので、中身をどう読んでいるかもお聞きしたいですね。

栗原:楽しく読んでます。最初『ティアズマガジン』の「ティア」って「涙(tear)」だと思ってたんですよ。マンガに涙を流す、素晴らしい誌名だなと思ってたら違ってた(笑)。でもそんなことを感じるくらい、『ティアズマガジン』の感情に訴える情報量は、自分の中ではディズニーランドを超えてるんですよ。だからコミティアってイベントがこの感情の広さと深さを持ったまま行けるか、ってことに大事さを感じます。

──過分なお言葉、恐縮です。逆に不満に感じていることはありますか?

栗原:何年か前(2019年11月)からサークルPRカットが小さくなってしまったことですね。前編で言った通り、飯田さんの『楽園』の広告で良いのは、選ばれたカットがすべて次のコマを想起させるところです。今のサークルカットは、次のコマを想像させるものが少なくて、名刺みたいになってしまっている印象があります。

──小さくなった分、情報量は減りましたよね。『ティアズマガジン』の大半を占めるのがサークルPRカットで、サークル数の急増によって厚さ、重さ、印刷代などにかなり響いていて、やむを得ずの決断ではありました。

栗原:僕が年を取ってきて、若い人の絵の区別が付きにくくなってきた、っていうのもあるかもしれない。若い読者は小さなカットの微かな違いを味わえているのかもしれないです。

飯田:一枚一枚の絵に反応できる人は、相当な目利きですよね。味覚で言うと、すごい良い舌を持っているということですから。

栗原:サークルリストの一覧を眺めるのも楽しいですよ。サークル名の持つ価値って、実はすごいんです。膨大な数のサークル名を見れば、編集者だったらそこから無数の企画が浮かびます。実際に描いてるものとレベルのギャップがあっても、描きたいものへの可能性は感じ取れる。これだけのものを1人の編集者が考えるのは不可能なんですよ。

飯田:作家にとっては「名乗り」ですからね。

栗原:飯田さんも経験あると思うんですけど、新人賞とかで作品に描かれた顔と、実際の作者の顔に共通するものがあると安心するんですよね。この人は「人マネじゃないマンガを描けそうだ」って。だからサークルカットは大きい方が分かりやすかったなと思います。

──他にティアズマガジンを読んで感じることはありますか。

栗原:作品紹介をしている「Push&Review」を読むと、評論家的な言葉が多いなと思います。そのマンガを想像できるような文章を書いた方が響きますよね。むしろ、作品そのものよりも面白い文くらいであってもいい。マンガを評価するなら読んだ実感で「胸を羽毛で撫でられたような読み心地だった」とか(笑)。読者も体や脳で受け止めたような感覚を言葉にすることで、親密な反応ができるんじゃないかな。コミティアはすぐれた評論も生まれる場所と思っていますので、今の少し硬い文章もそのまま進化すればいいと思います。

──「Push&Review」は、スタッフも1人の参加者、1人の読者としてレビューを書くこともありますけど、基本的には投稿されてきたものですので、あまりその内容には深く関知できないんです。ただ、何か改善できることはあるかもしれませんね。

栗原:巻頭の「ごあいさつ」とか、読みやすく感じる文章もありますよ。

飯田:日常で使うようなわかりやすい言葉を使ってるからですかね。

栗原:感じたものを、感じた言葉で言ってますからね。

飯田:『楽園』の掲載作品の感想をSNSでよくエゴサーチしているんですけど、文章が上手い人がすごい増えたなと感じてます。作中の伏線であったり作品の演出なんかも読み込んでくれて、よくぞここまで読んで書いてくれたなと思うことが多いです。でも伝わっていない時の不満にも繋がるので、それで一喜一憂しないようには心がけていますね。

栗原:漫画家に対して「10のことを考えて描いてくれ、そのうち2か3を読み手が受け取るから」ということを言ってました。絶対に言わなかったけど同時に思っていたのは「漫画家は自分の能力を超えたレベルで作品を描かされてしまっている時がある。だから2のつもりで描いたことを10で読み取る人もいることを忘れるな」ってことです。

飯田:それは今、この記事を読んでいる読者に伝えていいことなんですか(笑)

栗原:どうかな(笑)。漫画家と編集者は読者より上と思ってはならぬという、まあ、いましめです。コミティアに来ている人だったら、分かるだろうと思って話していますね。

飯田:栗原さんの言葉は読者の同意を得られそうですよ。

──プロとして作品を届ける側の立場からすれば、たくさんの理解を前提に描くのは良くないんですよね。でも限られた読者の「何かあるんじゃないか」とすくい上げようとする気持ちが、作家の希望になるんじゃないかというのが、コミティアの原動力の一つでもあると思います。そして、その感想を届けようとすると、どうしても作家としての力量が求められてしまうという…。

「コミティアらしさ」とは

──お二人は「コミティアらしさ」をどんなところに感じますか?

栗原:僕はコミティアってすごく真面目だと思います。参加者がみんな、コミティアについて語りたがってるじゃないですか。読者も「Push&Review」とかで硬い言葉ではあるけど語りたがっている。そのある種の硬さ、生真面目さがコミティアを長く持続させているように思うんです。マンガ的でないものが、マンガを支えているという感覚ですね。

──より親しんでもらえる雰囲気を作りたいなと思いつつ、ちょっとした遊び心を入れにくい、失敗を許さない今の社会の空気を感じることもあります。

栗原:世の中の保守化を感じとっているんでしょうね。

飯田:そうですね。全体的に管理の方向に進んでますよね。管理と創造って折り合いがすごく悪いので、真綿で首を絞めるように、創作がつまらなくならないといいなと思います。

栗原:僕が思うに、コミティアを支えているのは「フェアな要素」だと思います。出展している人が自分で値段を決めて、買い手がいるかどうかを勝負する。それがイベントとしての場を盛り上げて、作品の価値を瞬間的に高めているんです。お祭りのような、あの場にいるだけで楽しいという気持ちが、マーケットとしての価値を引き上げていると思います。

飯田:確かに。「何か買って帰らなきゃ損だ」と思わせる魅力があるんでしょうね。

栗原:会場に入った瞬間に「ここは自分たちが受け入れられている場で、同時に自分たちが受け入れている場だ」と感じさせてくれる。本当に独特です。さらにマンガ以外の創作物があるというのも重要な要素だと思います。あらゆる表現物を「コマ」として捉えるという発想ができるのもコミティアの凄く面白いところです。世の中のすべてをコミックの「コマ」という網でつかまえてみせることだって出来るような気がするんですよ。

飯田:以前、コミックナタリーの座談会の中で「コミティアがなくなったらどうなると思いますか?」というような質問があって、その時は「マンガの風通しが悪くなると思いますよ」と答えたんです。コミティアは「やりたいことをやっちゃいました」が通用する場だと思うんですよ。やりたいことがある人こそ一回コミティアに行って、まずは全スペース回って欲しいと思うんですよね。さらに言うと、今回どのスペースに行っても見つからなかったものが次回あるかもしれない、というある意味で答えの無い奥深さがある。自由を超えた、訳の分からなさ。だから毎回ずっと手探りで回ってるような感じです。

栗原:多分コミティアは創作の出発点で「なんでもいいよ」っていう自覚があるんだと思うんです。

──未知だから楽しいということは沢山ありますよね。だから、明らかにしすぎないことも大切なのかもしれません。

40周年、そしてその先へ

栗原:コミティアはマンガを描いている人とマンガを読みたい人でできている、日本ならではの奇跡的なイベントだと思います。プロもアマチュアも関係なく描いて、値段をつけて売ってるし、それを買う人もいる。それって素晴らしいんですよ。たとえば商業誌だと作家には値段をつける自由がないんです。

──「値段をつける自由がない」という視点は持ってなかったので、なるほどという気持ちです。

栗原:コミティアは世の中とすごく自然に付き合ってると思いますね。世の中の有り様とすごくフラットな関係のまま、その時代の新しい作品が出現する場であり続けてほしい。マンガっていうのはすごいもので、絵が拙くても多くの人に触れてもらえることがある。音楽でも何でもこんな分野はない。人間そのものに直結したところから表現できて、大勢の人がその価値を認めることができる。表現が下手であっても、描いているものに価値があったらみんなが認めてくれる。そういう「コマ」っていうのはすごい発見なんだと思うんですよね。それを意識せずに、誰もが自然に「コマ」と向き合っている。だから、これからも大勢の人が参加したくなるようなイベントであってほしい。大勢であることが新しいものが生まれる可能性を担保している、そんな風に思うんです。「一コマ先の自由」を一番に体現しつづける場所だと思います。

──コミティアにはこの先、どんな可能性があると思いますか。

飯田:コミティアの配置図に並んだサークル、この一つ一つが無限の可能性がある「コマ」ですよね。言ってみればコミティアが一つのコマだし、その中にすごい細分化された「コマ」がある。それがコミティアが続いていく原動力の一つなんだと思います。

栗原:僕は「コマ」の原理主義者だから、「コマ」というものが単に時間を止めた絵を描く技術ではない、人間そのものが受容される優れた表現として、これからもずっと残ると考えています。だから「コマ」をベースにしたコミティアというイベントはそのまま続いていくと思います。

──心強い言葉で、とても嬉しいです。

栗原:もしも人間がコマ表現というものを必要としなくなったら、マンガそのものも読まれなくなっているでしょう。その時には、コミティアというものはマンガの魂を継承した別の表現物マーケットへ変貌するでしょう。そんなSF的な未来を楽観的に想像できるのもマンガの力だと思います。

──それも一つの「コマ」の楽しさですね。最後に40周年を迎えたコミティアに一言お願いします。

栗原:本当に「長く続いて欲しい」ということ以外にないですね。

飯田:40周年という節目は凄くおめでたいことです。ただ、同時に通過点に過ぎないとも思っています。やっぱり「その先も目指して長く続けてください」ですね。

──その期待に応えられるようこれからも頑張ります。本日はありがとうございました!

(取材日:2024年4月25日、5月16日)

特別寄稿
一コマから、二コマへ。

本稿は座談会の取材後、栗原良幸さんより「一コマ先の自由」で語られた各論についていただいた「補足」を、ティアズマガジン読者用に改稿していただいたもの。読むことでより理解が深まるはずだ。ぜひ貴方の二コマ目の足がかりにして欲しい。

私は漫画編集者として長い年月を過ごしました。その間に多くの漫画作品の誕生と盛衰に関わってきました。また多くの外国漫画家に執筆を依頼することで、日本漫画の特質と普遍性を改めて知ることになりました。

いまの日本には絵を描く若い人が大勢いて、その多くが輪郭線をきちんと描くコミックアートです。20年ほど前になりますが、絵を描いている多くの人が漫画を描きたいと思っている、あるいは描こうとしたがうまくいかなかったと思っている、そういう調査報告に触れたことがあります。いまコミティアに参加している多くの人にも、思い当たる気持ちがあるのではないでしょうか。迷いなく漫画を描けている人はそのまま歩をお進めになり、そうでない人には私のささやかな知見が一助になればと思います。

漫画表現の本領は「一コマ先の自由」にあります。そこに漫画の汲み尽くせない魅力の源泉があります。そして「一コマ先の自由」を端的に示すのが「二コマの漫画」です。コマの原理だけで言えば、漫画はすべてが二コマの連続で表現されています。

漫画を描いてみたくなったら、まず一番描きたい絵を一コマ目に描く、さらに描きたくなった絵を二コマ目に描く、それで漫画を描いたことになります。それは子どもの時の自転車に乗れた瞬間、プールで浮きのできた瞬間、壁に向かって逆立ちができた瞬間と同じように、一生失うことのない能力の体得です。例えば五十音の「あっ」にあたるコマを心豊かに描き、次のコマに「うっ」、「えっ」、「おっ」にあたるコマをうれしく決めるようなものです。「いっ」には未知の発見も。もしバンクシーが会場のどこかに二コマを描いたら、とんでもない市場価値が生まれるでしょう。初心者から名手まで、二コマの可能性は無尽蔵です。

多くの読者を持つストーリー漫画、あるいは読まれ続けている古典的な漫画には、いたるところに魅力的な二コマが描かれています。そういう漫画の原画展などでは、一枚の画稿の中に二コマの感動を見つけることができます。編集の経験上、作品や作者に停滞が感じられる時には、魅力的な二コマが影をひそめます。作者がそれに気づければ、編集的には"コマの助け"と言いますが、作品を二コマの面白さでとらえ直す方法論となります。

日本漫画は題材も表現も世界一豊かです。漫画は日本語の恩恵をすごく受けていて、作者と読者で無意識に共有している大量の思考パターンがあります。コマ運びや感情表現で共有している思考パターンは、大勢の読者を魅了することにつながりますが、自由な表現の制約となることがあります。編集的には”コマが滑る”と言いますが、作者独自の面白さをコマに定着できずに、状況を説明するだけのコマや、安易な人物表現となりがちです。滑ったところを二コマでとらえ直してみれば、作者本来の持ち味を見直せる方法論となります。

漫画は言葉を絵にできるアートです。いまも同じだと思いますが、編集者が新人の漫画を評価するときに重視するのはネームです。編集者はセリフを頭の中で音読し、同時に絵も言葉にしながら読み、コマ運び=作者の思考に訴える力を感じ取ります。面白い言葉は面白い絵を生み、力のある言葉は力のある絵を生み、美しい言葉は美しい絵を生みます。絵が言葉を生むこともありますが、概して新人時代には、絵が追いつかないほどの言葉に憧れていくことが成長につながります。

日本漫画の無限の可能性は、日本語の懐の深さにも依拠しています。描きたいものを豊かな日本語で育むことが、しっかりした漫画制作につながります。日本語には人間の内面・外面を表す表現がたくさんあります。漫画はまだその一部分しか体現していないと分かれば、そこにも無限の可能性を見出すことができます。いまの段階でも、漫画の絵と日本語の融合で最適化された感情や知恵は、世界中の人々に届き始めています。

日本漫画にとって日本語の構造そのものが愛情に満ちた揺り籠です。漫画の二コマはその揺り籠で遊ぶ幼児のように、無限の表現を秘めています。とんでもなく飛躍したコマ運びでも、日本語で順を追って考えられたものであれば、多くの読者はその新しさを理解します。またストーリー漫画での二コマ感覚には、バレエダンサーやピアニストが毎日続ける基本トレーニングの趣もあります。長編を描こうとする漫画家であれば、思い浮かぶあちらこちらを二コマに描き溜めしてみると、実際にはそのひとつひとつを乗り越える展開も含めて、創作への圧倒的な抱負が生まれるにちがいありません。

もしも若き日のウォルト・ディズニーがコミティアに参加していたら、サークル自己紹介のカット絵に、二コマ漫画の一コマ目か二コマ目を使っただろうと想像します。コミティアに横溢する一コマ先の自由に向けて、どうぞグッドラック。

(ティアズマガジン150に収録)